20130814戦争由良湾.jpg重山から見下ろす現在の由良湾
 県沿岸部のほぼ真ん中、海岸線には真っ白な石灰岩の岬があり、その景色は古く万葉集にも詠まれた風光明美な由良町。海岸は釣り人のメッカ、休日にはお年寄りがのんびり糸をたらす姿もみられるが、いまから68年前の夏、静かな港に待機していた海防艦が無数の敵機に襲いかかられ、すさまじい爆撃と機銃掃射を受けて沈没、99人が戦死した。由良町には、大東亜戦争(太平洋戦争)当時、大日本帝国海軍の紀伊防備隊が開設され、町内各地に陸海軍の施設があり、戦争末期にはたびたび空襲の標的となった。
 紀伊水道を見下ろす由良町大引の白崎には、江戸時代から外国船の出入りや不審船を監視するための「遠見番所」が置かれ、海面防衛の要衝として考えられていた。盧溝橋事件を発端とし、大陸全土に戦火が拡大していった支那事変(日中戦争)が起きた昭和12年7月には、海軍大臣が呉鎮守府司令長官あてに「由良内防備隊前進基地新設工事施行命令」を出した。軍が用地を買収、10月から始まった埋め立てや護岸、庁舎建設などの工事は2年がかりで終了。14年11月11日、正式に紀伊防備隊が発足した。
 大東亜戦争が始まり、昭和17年4月18日午後2時35分ごろ、空襲警報が発令され、敵機が初めて由良の空に姿を現した。これは「ドーリットル空襲」と呼ばれ、米軍が空母に搭載した陸軍の爆撃機で行った日本本土に対する初めての空襲だった。19年6月のマリアナ沖海戦、10月のフィリピン沖海戦で敗れ、制空権を完全に失った日本は日常的にB29の本土空襲を受けるようになり、20年6月25日朝、B29が由良町中区付近の山に爆弾を投下した。7月10日の午後には、第30号海防艦が8機のP51ムスタング戦闘機の襲撃を受け、高角砲2門、25㍉機銃14門で迎撃。防備隊と他の艦船も応戦する激闘の結果、敵の戦闘機2機を撃墜したが、海防艦は12人が戦死、20人以上が負傷する大きなダメージを受けた。
 当時、旧制日高中学校(現日高高校)の2年生だった和歌山室内管弦楽団指揮・音楽監督、中西忠さん(81)=大引=らによると、25日、由良湾では朝から、紀伊防備隊の隊員と第30号海防艦の乗員によるボートこぎ競争が行われた。勝利した海防艦チームは、艦長の楠見直俊中佐のはからいで無礼講の酒宴がもうけられ、甲板でみなが酒を飲んで盛り上がっていた。午後になって突然、3機のグラマン戦闘機が現れ、低空で北向きに飛んで行った。無警戒の状態から、迎撃発射までに要する時間は7、8分。敵の姿が見えなくなりかけたとき、海防艦の高角砲が火を噴いた。距離が遠すぎたか、あるいは酔っぱらっていた兵員が狙いを外したか、砲弾は敵機まで届かず、最後尾の3機目の後方で爆発した。グラマンはいったん北の空に消えたあと、引き返してきて、湾内にあった2隻の海防艦のうち、永井の鼻寄りに停泊していた第91号に向けて機銃を掃射した。
 糸谷に住む阪元昭良さん(78)は、グラマンの機銃で海防艦の兵員が撃たれた決定的瞬間は見ていないが、30号が高角砲を撃って、引き返してきたグラマンが91号に向けて機銃を撃ったのは目撃。「そのあと、91号から桟橋を渡って遺体らしきものが運び出され、しばらくして網代の火葬場から黒い煙が上がっていました。周りの大人たちは『3人が機銃に撃たれて亡くなり、火葬されたらしい』と話していました。私も自分が見た現実からすると、そう考えるのが一番自然で納得できました」という。
 このとき、海防艦が放った高角砲を、中西さんは「運命の一発」と呼ぶ。それが米軍の逆鱗に触れたか、3日後には静かな糸谷の湾で、戦史に残る海防艦とグラマン編隊による激闘が行われ、紀伊防備隊と海防艦、さらに陸軍の施設や火薬庫が密集する由良湾一帯は連日、警戒・空襲警報が鳴り響き、村の住民は気の休まる間もなく爆撃の恐怖にさらされた。
20130814戦争海防艦引き揚げ.jpg昭和28年に海底から引き揚げられた第30号海防艦
 由良湾に停泊する第30号海防艦がグラマンに向けて放った「運命の一発」のあと、由良湾と大引の間にある重山(かさねやま・標高263㍍)の南側斜面に爆弾が落ちた。大引に住む中西さんが翌朝、近所の友達とその場所を見に行くと、直径5㍍ほどの穴がいくつも、寄り重なるようにあいていた。「それほど大きくない特殊な爆弾だったんでしょうかね。狭い範囲に17個の穴があいてました」。同じ日、中西さんらはその場所から、山の反対側になる道路の交差点付近にも、2発の爆弾が落ちた痕を見つけた。
 この山の両側、2カ所に落ちた爆弾は大きな被害もなく、いずれも町の記録や資料にも出てこないが、中西さんは頭の中で落ちた2つの地点を線で結んで鳥肌が立った。「被弾地点を結ぶ線の真下には、私の父(馬戸忠蔵)が持っていた旧小野田セメント採石場の火薬庫があったんです」。そこは軍が迫る本土決戦に備え、連日、馬力(荷馬車)で火薬を運び込み、大量に貯蔵していた。アメリカはすでにその情報をつかみ、火薬庫を狙って爆弾を投下したのではないか。「ほんの1秒タイミングがずれて火薬庫に命中していたら、近くにある私の家も含め、周囲の家はみんな吹っ飛んで、大勢の犠牲者が出たはず...」。68年が過ぎたいまも、思い出すたび恐怖がこみあげる。
 28日朝、中西さんは3歳下の弟実さんと家の前の海でガシラを釣っていた。午前8時ごろ、1機のグラマンが山の上から機銃を撃ちながら飛んできた。中西さんと実さんはすぐに身を隠して無事だったが、それが戦闘開始を告げる法螺貝のように、間もなく重山の反対側で、グラマン4機による第30号海防艦への攻撃が始まった。グラマンは4機が一隊となって銃撃しながら急降下し、高度約1000㍍で25㌔の小型爆弾を投下して急上昇。これを複数の編隊で何度も繰り返し、第一波は海防艦の対空砲火、防備隊周辺の山の対空砲陣地からの攻撃もあり、グラマンは海防艦に近づくことができず、投下弾もすべて直撃はなかった。しかし、10時ごろからの第二波は小型爆弾4個が艦橋と煙突の間、艦橋の付け根を直撃。艦橋は吹っ飛び、艦橋要員のほとんどが海に投げ出され、楠見艦長も戦死した。その後も敵機の執ような攻撃を受けながら、海防艦は残った中央機銃群と後部高角砲で必死の反撃をみせたが、燃料に引火して擱座(かくざ)炎上。午後11時、沈没した。この戦闘による死者は当初66人、負傷者は51人となっていたが、戦後28年になって沈没した艦が引き揚げられたところ、艦内から33人の遺体が見つかった。
 海岸でグラマンの機銃に狙われた中西さんは、山の向こうから聞こえた金属を削るようなグラマンの飛行音がしなくなった午後、実さんを連れて歩いて海防艦を見に行った。艦が炎上している糸谷に近づくにつれ、海にはチヌやスズキなど大きな魚が無数に浮いていたのを覚えている。その中に、つい数時間前の戦闘で亡くなった海軍兵の遺体が目に入った。どれも血の気がなく、全身が真っ白で、ろう人形のように美しかった。
 「お~い、おまえら、ちょっときてくれ」。声をかけてきたのはモーターボートに乗った白い海軍服の将校だった。危ないから家に戻れといわれると思いきや、遺体の回収を手伝ってほしいと頼まれた。将校と二人一組になって、遺体をボートに引き揚げた。ひと通り作業が終わったあと、将校が謝礼として、前田のクラッカーより少し大きなクラッカーを1枚ずつくれた。「私はその場ですぐに食べてしまいましたが、実は半分だけ食べて、残り半分をポケットに入れました。私がそれをどうするんだと聞くと、実は『家に帰って、家族に見せて、みんなに分けてあげる』といいました」。お菓子など見ることもほとんどなかった時代、中西さんはいまも海防艦の話になると、30年前に亡くなった心優しき実さんの言葉を思い出すという。