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内地への送還を前に満州の病院で。患者用の白衣の上に軍服を着て撮影した
 「さようなら、お父さん、お母さん。ミユキ、カヨコ、昭次、お兄ちゃん、もうあかんわ...」。日高川町小熊に住む狩谷健造さん(86)の左足には、中国兵に撃たれた銃弾の破片が残っている。毎晩、風呂場で足を見るたびに、68年前の中国大陸で展開された湘桂作戦、湖南省・営田(えいでん)での死闘が脳裏によみがえる。
 小熊のミカン農家に生まれた狩谷さんは、矢田村尋常高等小学校を卒業後、16歳で広島・呉の海軍工場へ就職。軍艦の修理業務などに携わっていたが、17歳のとき、「少しでも早くお国のためになりたい」と入隊を志願した。本来、入隊は20歳からだが、勇気ある決断に父右衛門さん、母ツギヱさんも賛同。昭和18年12月、道成寺駅で両親と3人の弟妹に見送られ、和歌山市にあった陸軍歩兵第61連隊に入隊。翌日、狩谷さんら少年・青年兵約300人は中国の戦地へ送られた。
 陸軍は翌19年4月17日から中国大陸で、一号作戦を展開しようとしていた。作戦距離約2000㌔の大規模な攻勢作戦は、南北に通じる鉄道の確保、米軍爆撃機B29の基地になると予想される桂林、柳州の基地の占領などが目的。狩谷さんらは汽車、船を乗り継ぎ、上海に到着した。南京からは船で長江を上り、南昌へ。途中、空爆を受けながらも南昌にたどり着き、狩谷さんは、平岡卓中尉が中隊長を務める34師団歩兵218連隊第2大隊第8中隊に配属された。船着村三十木出身の岡本恒一さんもいた。
 4月29日、南昌から地獄の進軍が始まった。武器や食料など数十㌔もある荷物を担ぎ、連日数十㌔。狩谷さんら少年兵は、食事の用意や武器の掃除などで寝る間もない。ほぼ飲まず食わずの行軍で、5月5日に集結地となっている蒲圻に到着した。5月9日には京漢(北京―漢口)の陸路を制圧、南北の連結が完成。第8中隊を率いる軍は5月27日に進撃、湘桂作戦(ト号作戦)を開始した。狩谷さんら第8中隊は岳州、達磨山と次々と攻撃。6月4日、2度にわたって完全占領に失敗している長沙の北、営田で戦いの火ぶたが切られた。
 翌5日朝、薄暗い闇の中、先頭を進んでいた尖兵が「敵だ」と叫んだ瞬間、攻撃を開始した。小競り合いを繰り返しながら隊はじわじわ前進。後退する敵を追ううち、攻撃目標となっていた星型陣地の前方に出た。ところが、陣地のトーチカは巨大でびくともせず、絶え間なく機関銃が撃ち込まれ、迫撃砲弾が頭上を飛ぶ。そんななか、歩兵は敵軍目がけて突撃、狩谷さんも隠れていた壕(ごう)を出ようとした瞬間、下半身に衝撃を受けて崩れ落ちた。機関銃で狙い撃たれ、銃弾が銃刀の鞘に当たったあと、左大腿部を貫いていた。トーチカからは毒ガスも噴射され、身動きがとれない。近くに味方は1人もいない。「もうあかん...」。死を覚悟した瞬間、目の前に感謝でいっぱいの父と母、かわいい弟、妹が現れた。「最期やから会いに来てくれたんか」。息絶え絶え、幻影を見ていたそのとき、再び壕に引きずり込まれた。新井という朝鮮人の歩兵が救ってくれたのだ。
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左足はことし3月に撮ったレントゲンで、敵の銃弾の破片が二十数個も残っていることが分かった
 昭和19年6月、営田の戦いで死傷者が続出した。狩谷さんの左足は身がえぐられ、銃弾は太ももの中で砕け、一部破片が残ったようだ。激しい銃撃戦が続くなか、体を横たえていると、衛生兵が到着した。オキシドールで手当てをするが、在庫を考えごく少量を塗ってくれるだけだった。軍は夕方、星型陣地を攻略。負傷者は軍のあとを追って移動する野戦病院の所属となった。狩谷さんは担架で移動したが、不十分な手当てでは日に日に傷が悪化。数日後には患部が化膿、たまった膿にうじがわき、左足全体が毒ガスの影響で黒ずんでいた。衛生兵が「毒が体に回っては危険だ。足を切り落とすか」と聞くが、狩谷さんは「立てなくなるのは嫌だ。残してほしい」と頼み込んだ。うじが膿を吸うたびにチクチクとくすぐったく、不思議だが、何だか心地いい。数日後、ようやく病院で軍医による治療を受けられるようになった。軍医は、両手いっぱいのうじを取り除き、「残り半分は置いておこう。うじ虫療法だ」。数週間後、漢口の病院を出るころには、うじ虫のおかげで膿は消えていた。
 その後、負傷者として内地へ送還されることになり、各地の病院を転々としながら北上。満州の奉天に着いたころはすでに冬になっており、訪れた病院は13を数えた。日本軍は湘桂作戦で長沙、衝陽へと進軍、11月には桂林、柳州を占領、一号作戦最大の目的だった米軍2大基地の覆滅を果たし、20年2月に湘桂作戦が終結。一号作戦の目的は達成した。「いよいよ国に帰れる。みんなに会える」と思った矢先、無情にも「内臓疾患者でないと内地へ還せない。兵力が足りない」といわれ、狩谷さんは軍に逆戻りとなった。
 再び大陸を南へ下り、桂林近くで駐屯、警備する連隊を目指し、合流が間もなくとなった衝陽の病院で、「お前生きてたんか」と声をかけられた。8中隊の中隊長太田晴雄中尉と同期の戦友、佐原信親さんだった。太田中隊長は、前第8中隊長、平岡大尉の後に赴任し、衝陽東の覆船山の戦いで負傷。湖南省西部など奥地の飛行場を制圧、重慶進攻の足がかりとして実施されようとしていたシ江作戦に意欲をみせていた。佐原さんは、同じ営田での戦闘で負傷。思わぬ再会に笑顔が弾けた。狩谷さんは、太田中隊長と佐原さんとともに隊を目指し、4月、桂林付近を警備する中隊に合流。10カ月ぶりに復帰を果たした。
 5月9日、前進が困難となったことからシ江作戦の中止が決定。日本軍は反転を開始する。狩谷さんら218連隊は宝慶まで移動、作戦部隊の撤退を援護するとともに、6月16日から反転作戦を開始。中国軍の追撃と米軍の空襲を受けながら万載、高安を経て、8月15日の昼には安義を通過したあと、谷間で休憩することになったが、何時間たっても命令がない。 夕方、「戦争が終わった」と誰からともなく伝わってきた。勝ったのか、負けたのか、誰にも分からない。翌日、敗戦を知った。「なぜだ。なぜ負けたんだ。われわれは全戦全勝。勝ちっぱなしだった」。信じられず心の中で叫んだ。その後、九江で捕虜となり、21年2月に復員した。
 8中隊の戦友とは、毎年春に和歌山市で開かれている懇親会で顔を会わせる。「とても楽しみなんです」と狩谷さん。当時の思い出話に花を咲かせるとともに、あらためて戦争の愚かさ、平和の尊さをかみしめているという。兵庫県淡路市在住の中隊長だった太田さん、奈良市の同期・佐原さんとも毎年この懇親会で再会。太田さんには、証明する書類がなかったことから役所への恩給申請の際に世話になり、佐原さんには毎年ミカンを送るなど交流していた。当初、30人以上出席したメンバーも年々減り、太田さん、佐原さんも数年前に他界。「手を合わせにいきたい」と戦友の死を悼み、恒例の懇親会もメンバーの減少で数年前から開かれていない。
 戦場で負傷した左足は日常生活には支障がないとはいえ、40度ほどしか曲がらず、走ることができない。いまでも寒くなると痛くなるという。ことし3月には、ミカン畑で転倒し、左足の付け根を骨折。病院で初めてレントゲンを撮ったところ、二十数個の銃弾の破片があることが分かった。
 大きな傷跡を見ながら、「やっぱり残っていた。一度MRIできっちり診ててもらいたいんやけど、破片が溶けるからできんらしい」と笑う。営田などの激闘を振り返って、「いまは二度目の人生。われ先に戦場へというあんな時代はもうこりごり。戦争は二度とやったらあかん。いまは本当に恵まれた時代」。妻・恵子さんとの幸せで平和な時間を過ごしている。