2011.12.4 連載谷口1.jpg
昭和20年3月30日、レイテ島で戦死した榮一さん
 印南町に住む団体職員谷口光寿さんは、大阪万博が開かれた昭和45年(1970)生まれの41歳。30を過ぎるまで過去の戦争について深く考えることはなかったが、近年の日本を取り巻く国際問題、東南アジアの緊張から、酒の席でも外交や安全保障に関する話題が多くなってきた。その流れで戦争が議論となることもしばしば。「自分自身、右とか左とかのスタンス以前に、いまの日本人には、よくいわれる日本だけがあの戦争で悪いことをしたというような自虐的な歴史観があるように思うんです」。大国が覇権を争った世界の潮流の中で、アジアの日本が立ち上がったのは、それぞれの国益のため、存亡をかけて戦った他の戦勝国と何が違うのか。フィリピンのレイテ島で戦死した祖父は、正直、子どものころから「盆の墓参りというイベントの人」でしかなかったが、3年前、警察官だった父が突然の病で死んだことをきっかけに、自分の中で何かがかわったような気がする。先月、友人とともに東京の靖国神社を参拝した。
 祖父榮一さんは大正7年2月、田辺市長野の竹内家の四男として生まれ、1つ下の妻イヨ子さんと昭和18年6月に結婚。翌19年9月3日に長男忠雄さんが生まれたが、約7カ月後の20年3月30日、フィリピンレイテ島シラットで戦死した。享年27、生きていれば93歳。妻イヨ子さんは9年前に亡くなっており、忠雄さんの長男光寿さんはイヨ子さんや近所の人からも榮一さんの人柄など生前のことはほとんど聞いておらず、戸籍謄本に記された情報以外には何も知らない。「おじいちゃんは戦争へ行って死んだ」。あらためて考えると、いつだれから聞いたのかもはっきりしない。仏壇の間の遺影を見上げながら、祖父のことを深く知ろうという考えもないまま過ごしてきた。
 昭和19年10月20日に始まったレイテ島の戦いは、山下奉文陸軍大将率いる陸海軍合わせて約8万4000の日本側守備隊に対し、フィリピン奪還を目指すアメリカ側は2年7カ月前に島から脱出したマッカーサーを総指揮官に、約20万もの大軍を投入した。日本側は前哨戦の台湾沖航空戦の大敗と前線からの虚報に大本営が判断を誤り、戦果誤認のまま作戦を発動。これにより、海軍は武蔵など戦艦3隻、空母4隻、航空機180機を失い、陸軍も「ルソン島決戦」から突然の「レイテ島決戦」への転換により、兵員、物資とも補給なしの戦いを強いられた。結果、日本軍の戦死はほぼ全滅の8万人、対するアメリカ軍は3500人。わずか数カ月の間に島民も含め、10万人以上が命を落とした。
 食料も弾丸もなく、島民のゲリラにまで命を狙われながら投降は許されず、マラリアにやられても薬もない。そんな地獄のような戦場で祖父はどのような最期を遂げたのか。谷口さんは、「子どものころは銃弾を浴びて亡くなったとぼんやりイメージしていましたが、戦いの実態をテレビや本で知ったいま、あの状況では飢えか病気で死んだと考える方が自然ですよね」という。
 谷口さんの家の榮一さんの仏間には、遺影の入った靖国神社の写真が飾られている。日本の歴史教科書や首相の靖国参拝が中国、韓国からの反発を受け、修正したり参拝をとりやめたりするたび、国のために戦って死んだ祖父らが否定されているような気がした。「帝国主義の侵略的な側面もあったにせよ、日本の大陸や南方進出が責められるのなら、それ以前に東南アジアの国々を蚕食していた欧米の植民地政策も同じではないのか」「中国の外交手段としての反日運動の真相を伝えないマスコミ、他の台湾やフィリピンなどアジア諸国には日本の統治時代の教育や政策に感謝する親日派もたくさんいることを教えない教育こそが間違っている」。いつもそんなふうな議論となる飲み仲間が「いいはじめて3年」、それぞれに仕事の都合をつけてようやく先月、靖国参拝が実現した。
2011.12.4 連載谷口2.jpg 
祖父榮一さんら戦死した英霊がまつられている靖国神社で手を合わせる谷口さん
 九段下の駅から市ケ谷方面、爆風スランプの歌を口ずさみ、左に武道館の大きな玉ねぎを見ながら靖国神社へ。高さ25㍍もある巨大な鳥居をくぐり、谷口さんは参道を歩きながら「おじいちゃん、やっと来れたよ」と心でつぶやいた。手水で身を清め、引き締まる思いで拝殿の前へと進み、心静かに手を合わせた。隣接する戦争博物館「遊就館」では、日清、日露、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)と続く戦争のパネル展に見入り、真珠湾攻撃隊長淵田美津雄中佐の攻撃機から発信された「トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」の電信、終戦時の陸軍大臣阿南惟幾の血染めの遺書など10万点に上る収蔵品をじっくり見て回った。平均所要時間は1時間半のところ、2時間半以上かかった。機体を軽くするため、薄い鉄板でつぎはぎしたゼロ戦や、人間魚雷、航空特攻兵器など、兵士の命のことはまったく考えられていない兵器がたくさん展示されていた。また、戦地から家族にあてた特攻隊員らの手紙には胸が熱くなり、とくにわが子にやさしく語りかける話し言葉に涙が止まらなかった。
 世界一の技術力と兵士の士気の高さがありながら、大本営と陸海軍が前線の兵士の命、国民の生活をかえりみないまま突き進んだ戦争。歴史に残る作戦の陰で、何十万人もの兵士が銃弾に斃れ、飢えや病気で命を落とした。また、内地では何十万人もの非武装の一般国民が空襲や無差別砲撃により、一円の恩給ももらえない死に方で犠牲となった。 谷口さんは「戦争は絶対にすべきではないですが、過去の戦争に関して、ドラマや映画になるような敵の銃弾が届かない後方で指揮していた人ではなく、国のため、家族を守るために前線で死んでいった無数の名もない兵隊さんにこそ、日本人として敬意を払いたいし、それは決して外国、まして同じ日本人から責められることではないと思います。戦前の教育は間違った部分も多いですが、それをすべて否定する戦後の教育と外交、マスコミの偏向によって、いまの日本人は純粋な愛国心を持てなくなってしまっているような気もします」という。