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昭和20年8月9日、長崎に投下された原爆のきのこ雲
 実戦使用された世界初の核兵器、ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」が広島に投下されて3日後の昭和20年8月9日、アメリカはタイプの違うプルトニウム型原爆「ファットマン」を長崎市に投下した。午前11時2分、B29ボックスカーから落とされたこの一撃により、当時の長崎市の人口約24万人のうち、その年の12月までに約3割の7万3884人が死亡、さらに約3割の7万4909人が負傷した。印南町に住む谷和子さん(69)は広島県呉市で生まれ、長崎に原爆が落ちたとき、市内松山町の爆心地から南へ約3・6㌔離れた油屋町、長崎くんちで有名な八坂神社のすぐ近くの母の実家にいて被爆。まだ物心もつかない3歳と8カ月の子どもだった。
 和子さんの父方の祖父は滋賀県で呉服店を経営。父の清三さんは広島の呉でその支店を開き、長崎出身の妻ハツさんとの間に長女寿美子さんと4つ違いの二女和子さんが生まれた。清三さんは和子さんが生まれる前に陸軍の兵士として出征、マニラで戦死した。夫を失ったハツさんは戦局の悪化に伴い、幼い2人の娘を抱え、夫と同じく呉服店を経営していた長崎の実家へ疎開。そのとき、2発目の原爆が投下された。
 和子さんはハツさんら家族と一緒に家の中にいて、母の兄の定行さんに助けられた。「大きくなってから聞いたんですが、爆弾が落ちた瞬間、おじさんがとっさに私を抱きかかえ、部屋に置いてあったミシンの下に身をかがめ、覆いかぶさってくれたそうです。そのとき、まだ小さかった私自身はなんの記憶もないんですが、家の前の八坂神社の石段を大勢の人が歩くような音だけが耳の奥に残っています」。それは泣き声のようにも聞こえ、大勢の人がさまよいざわついているようにも思える。「自分の目で外の光景を見たわけでもないんです。大きくなってからテレビドラマなんかで地獄絵図のようなナガサキの街の光景を見たりして、無意識に『けがをした人たちが神社の石段をぞろぞろと歩いている』、 そんな光景を頭の中で映像化したんでしょうね。とにかく悲愴で陰気な暗い音がいまも耳に残っています」という。
 幸い、爆心地から距離があったため、家を吹き飛ばされることもなく、家族はみんな無事だった。母ハツさんはとるものもとりあえず、着の身着のまま、寿美子さんと和子さんを連れて滋賀の夫の実家まで帰った。ハツさんはその3年後、心労がたたり、小学5年生の寿美子さんと1年生の和子さんを残して亡くなった。原爆による被爆が直接の原因ではないと思われるが、戦死した父に続いて母も亡くなり、寿美子さんと和子さんは滋賀のおば夫婦に引き取られた。
 いまはその育ての親も2人とも他界。寿美子さんは現在、寝屋川市に住んでおり、和子さんは「4人いた親はもうみんないませんが、長崎で被爆した私たち姉妹はいまもこうして元気。2人ともこれまで被爆が原因とみられる病気は何もなく、私は年のせいで、最近少し足が痛いぐらいですね」と笑う。
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爆心地から3・6㌔離れた場所で被爆した和子さんは、申請から数年後、直接被爆の1号被爆者として手帳が交付された
 終戦から20年近くが過ぎたある日、父の実家のある滋賀でOLをしていた和子さんのもとに、長崎から定行おじさんが訪ねてきた。「和子ちゃん、被爆者健康手帳って知ってるか」。和子さんは当時まだ20代前半、自分が被爆者で、国が医療費を全額負担してくれるなどの健康手帳があることも知っていたが、若く健康な自分が申請する必要を感じていなかった。「原爆が落とされたとき、和子ちゃんが長崎のお母さんの家にいたことを、おじさんが証明できる。申請しておいた方がいい」といわれ、「それなら...」と、とくに抵抗感もなく手帳の交付を申請した。
 被爆者健康手帳とは、▽原爆が投下された際、広島市内と長崎市内ほかそれぞれの爆心地に近いところで直接被爆した人と、その当時その人の胎児だった人▽原爆が投下されて2週間以内に救援・医療活動、親族さがしなどで広島・長崎市内(爆心地から約2㌔以内)に入った人と、その当時その人の胎児だった人などが交付の対象となり、医療費が無料になるほか、半年に1回の健康診断も無料で受けることできる。和子さんが被爆した母の実家は、爆心地から約3・6㌔離れており、「ぎりぎりのところ」(和子さん)だったが、申請から数年後の昭和41年、24歳のときに直接被爆の1号被爆者として交付が認められた。
 厚生労働省によると、全国の被爆者(被爆者健康手帳所持者)数は、手帳交付がスタートした昭和32年度が20万984人で、戦後35年の55年度まで増え続け、同年度の37万2264人をピークに減少に転じ、平成22年度末は21万9410人。和歌山県内の被爆者(22年度末)は345人で、県難病・感染症対策課によると、平成14年度は442人いたが、手帳所持者の高齢化とともに、全国的な傾向と同じく減少傾向にあるという。
 「被爆者の中には、差別を恐れて自分が被爆したことを隠す人がいるとも聞きます。私は自分から話すわけじゃないですが、人に聞かれて隠したことは一度もありません」。もともと根が陽気な和子さんは、常に何でもプラス思考。「逆に手帳を持っていることで、普通の風邪やけがでも医療費はいりませんし、年をとって1人になっても子どもの世話にならなくてもいいじゃないですか」と笑い、「幸い、これまで健康で過ごしてきましたし、私にとって被爆者手帳は持ってるだけで安心を得られる、お守りがわりにいただいたようなものですね」と語る。
 被爆から66年、69歳になった和子さんはこれまで一度も、毎年8月9日の長崎原爆忌平和祈念式典に参加したことがないが、それは家の商売が忙しく、たんに行く暇がなかっただけのこと。生まれ故郷の広島、長崎、さらにアメリカという国に対しても、恐怖や嫌悪、怒りといった特別な感情は何もない。「せっかく取材に来てもらったけど、記事になるような話がなくてごめんなさいね」。地域の人が互いに支え合っていた戦中戦後、自らが「ヒバクシャ」という言葉に縛られることなく、明るく前向きに生きてきた和子さん。そのやさしい笑顔が人の心を和ませる。