武士にかわり、国家による徴兵制で農民などから兵士を集めるようになった明治時代。西南戦争で兵士の敵前逃亡に手を焼いた薩摩軍は「あにおめおめと敵にくだり、軍門に惨刑せらるるをはじざらんや」という通達を出し、死の名誉と生の恐怖を説いた。日清、日露、第1次大戦を経て、昭和の戦陣訓へとつながるのだが、これらの教育が実際、大東亜戦争でどれほど多くの悲劇を生んだのか。
 昭和17年6月、日本はミッドウェー海戦に敗れ、快進撃から守勢に転じた。18年になると太平洋の島々で「玉砕」が相次ぎ、19年7月にサイパンが陥ちて絶対国防圏に穴が開くと、東條内閣は総辞職。本土はB29の非道な無差別焼夷弾爆撃にさらされながら、長崎に2個目の原爆が落ちるまで、310万人が犠牲となった。
 司馬遼太郎は「太平洋戦争に戦略などなかった。兵隊を汽船に乗せ、地図にあるかぎりの島々に配ってまわり、捨て去りにしたあとは、東條英機という集団的政治発狂組合の事務局長のような人が東京の大本営で『戦陣訓』というお題目をひたすら唱え続けただけの戦争だった。この戦争から引き出せる教訓など何もない」という。
 GHQが作った憲法、いびつな自衛隊、領土を奪われ、国民を拉致されながら何もいえない政治を見るにつけ、敵国の社会秩序を書き換えてしまう戦争が重くのしかかる。歴史にIFはないが、平和が侵されつつあるいま、過去を知り、健全で自然な愛国心が持てる日本にならねばならない。
 連載「真珠湾から70年」に予想以上の反響をいただいた。南方、大陸、前線、銃後...どんな「戦争」でもかまわない。12月8日に向けて再度、体験者の話を聞き、伝えたい。 (静)