「宮城事件」と呼ばれる陸軍省幕僚と近衛師団参謀によるクーデターが未遂に終わり、その中心人物の1人だった椎崎二郎中佐が自決してことしで66年。美浜町和田、入山の椎崎家はいま、住む人もなく、椎崎中佐の兄安重(やすしげ)さんの二男で、椎崎中佐のおいにあたる山本達郎さん(68)=和歌山市和歌浦=が週に何回か訪れ、仏壇と墓の守りをしながら管理している。
 達郎さんによると、同じ陸軍の中将の娘だった椎崎中佐の妻は戦後、再婚し、長男を連れて一家でブラジルへ移住。安重さん夫婦もすでに他界。生前の椎崎中佐を直接知る人はほとんどいないなか、安重さんの妻郁枝さんの弟で、椎崎中佐より7つ年下の椎崎与四郎さん(93)が御坊市内の高齢者アパートで暮らしている。
 与四郎さんによると、椎崎中佐は子どものころから成績優秀、スポーツ万能、性格はいたって真面目でまっすぐ。陸軍士官学校時代、夏休みで入山の家へ帰ってきたとき、代数を教えてもらいに行ったのを覚えているという。 「わしも徴兵検査に合格して、19歳で天皇陛下をお守りする陸軍の近衛師団に入ったんやけど、そのとき、じろちゃんは陸大の学生で、天保銭(てんぽうせん=陸大ワッペンの俗称)をつけた制服姿がまぶしかった。そらもう立派な人で、小さいころからずっと尊敬してた」と語る。
 与四郎さんは卒業後、陸軍近衛師団の歩兵第一連隊を振り出しに、支那事変当時は「援蒋ルート」遮断の南寧作戦、賓陽作戦などに参加し、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時は、世界の戦史に残る南方のマレー作戦に従軍した。勇猛果敢で「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文(ともゆき)中将率いる日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間でマレー半島1100㌔を進撃。与四郎さんら歩兵は「銀輪部隊」として自転車で一日数十㌔を進み、シンガポールのブキッテマ高地のフォード自動車工場で山下中将が敵将パーシヴァルに「イエスかノーか」と降伏を迫ったあの日、山下中将がパーシヴァルと並んで歩く姿を見たという。
 そんな歴戦の勇士の与四郎さんも、椎崎中将は子どものころから変わらず大きな存在。「当時、陸軍の内部は大きく東條(英機)派と山下(奉文)派に分かれとって、じろちゃんは山下派やった。支那事変(日中戦争)のころは満州で山下将軍の副官として活躍してて、長男の順中(やすなか)ちゃんは(昭和18年に)満州で生まれて、山下将軍に名前をつけてもろたそうや。大東亜戦争が始まってからは、阿南陸軍大臣の懐刀として全軍を指揮してたんやな」と記憶も鮮明、まるで小学生の子どもがお兄ちゃんのことを話すように誇らしげに語る。
 与四郎さんは終戦から1週間ほどして入山の実家に戻り、母親から「じろちゃん、死んだんやで」と聞かされた。「やっぱりショックやったよ。あのとき死んでなかったら、間違いなく大臣になってたはず。いまの政治家とは比べもんにならん、憂国の士やったな」。椎崎中佐が生きていれば、9月20日でちょうど100歳になる。
 椎崎中佐のおいの山本達郎さんは昭和18年生まれ。もちろん、椎崎中佐の思い出は何もなく、祖父の豊次郎さんも両親も、あまり椎崎中佐のことは口にしなかった。「やはり、あの宮城事件について、(身内の者が)天皇陛下に反旗をひるがえしたという負い目を感じてたんでしょう」。家では普通に話もしたが、近所の人や家族以外の人には戦争の話、椎崎中佐のことを話すことはなかったという。いまから16年前、戦後50年にあたる平成7年の8月のある日、実家で行った祖父豊次郎さんらの法事の最中、東京から1人の男性が訪ねてきた。
 炎天下、男性は御坊駅から道を尋ねながら歩いてきたといい、額に噴き出す汗をハンカチでぬぐい、「椎崎二郎さんのご仏前に手を合わせたい」という。法事のお勤めが終わるまで待ってもらい、話を聞くと、東京港区の青松寺(せいしょうじ)というお寺には椎崎中佐、畑中少佐ら宮城事件にかかわり自決した4人の将校の忠魂碑があり、毎年8月15日にはそれぞれの遺族が集まっているが、椎崎家だけが一度も参加していない。ついては終戦50年を機にその理由を確かめたいと、菊の紋章の入ったたばこを持参してはるばる出張してきたのだという。遺族のお世話をする団体の関係者らしいその男性によると、8月15日に集まる他の遺族の間では、「椎崎家は戦後、共産主義にかわったらしい」となっているとのこと。達郎さんらは「理由もなにも、東京へ行かなかったのは、そんな忠魂碑があることも、集まりがあることも知らなかっただけです」と説明。共産主義云々もまったくのデタラメであると否定した。
 達郎さんは「あのとき、男性に対応した私たちが東京の集まりを知らなかったのは事実ですが、二郎さんの父や兄は知ってたのかもしれません。終戦後すぐ、豊次郎さんは1人で東京まで二郎さんの遺骨を受け取りに行ってましたし、考えてみれば知らない方がおかしいですよね。戦後、入山の親兄弟は『そっとしておいてほしい』という考えでしたから...」という。
 和歌山市に本社のある電池製造、シロアリ駆除等の㈱イーストアジア・コーポレーションの取締役会長、 川村克人さん(78)=和歌山市西浜=は、美浜町の椎崎家と不思議なゆかりを持つ。10年ほど前に他界した妻の父、原寿雄元陸軍少佐が生前、口癖のように「いまの自分があるのは椎崎先輩のおかげ。本当にお世話になった」と話していた。
 原少佐は戦後、有田市の東燃㈱(現東燃ゼネラル石油㈱)に勤務。そのとき、部下だった川村さんが原少佐の長女と結婚した。川村さんはその後、東燃の石油運送等を担当する関連会社の社長となり、いまから12年ほど前、以前から仕事で付き合いのあった和歌山日野自動車㈱の達郎さん (当時は常務) が旧姓の「椎崎さん」と呼ばれていることにふと義父の話を思い出し、達郎さんに電話で椎崎中佐のことを尋ねてみると、「それなら私のおじですよ」となって驚いた。
 川村さんによると、義父の原少佐は陸大で椎崎中佐の5期後輩になり、士官学校を出たあと、中国の前線にいるとき、椎崎中佐が訪ねてきてくれた。陸大受験に2回失敗、いまのままでも国に奉公はできると考えていた原少佐に対し、「お前も俺と同じ和歌山の出身。あきらめずに陸大を受験しろ」と激励。原少佐が「しかし、陸大に合格するには家柄のよい人でないと...」というと、「何をいうか! この俺も農家の出だ」と怒鳴られ、受験するよう厳しく勧めてくれた。原少佐は亡くなる直前まで、「椎崎先輩は人格高潔にて誠実、本当に素晴らしい方だった」と話していたという。
 原少佐も椎崎中佐と同じく、陸大を出て方面軍参謀を務め、陸軍中将の令嬢を妻とし、戦後、義理の息子が同じ運送関係の仕事をしていた椎崎中佐のおいと出会う偶然。玉音放送から66年目の夏を迎え、達郎さんと川村さんは、命を張って国を守ろうとした椎崎中佐らの筋金入りの精神力にあらためて敬服。「いまの人には(宮城事件は)たんにクーデターを起こそうとした逆賊というイメージかもしれませんが、彼らもまた純粋に日本の国を守ろうとして起ち上がったんです」「祝日に玄関へ日の丸を掲げるだけで右翼といわれ、ことなかれ主義の政治家が政局に明け暮れるいまの日本。国を守るという最も大切なことを忘れてしまっているのではないでしょうか」と話している。 
        (おわり)