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大東亜戦争末期、陸軍省軍務局軍務課で動員計画作成等にあたっていた椎崎中佐(山本達郎さん提供)
 昭和20年(1945)4月以降、同盟国のイタリア、ドイツが相次いで降伏したあとも、日本は孤立無援のまま「一億玉砕」の覚悟で戦いを継続していた。7月27日、アメリカ、中華民国、イギリスの3カ国首脳が日本に対し、「全日本軍の無条件降伏」など13項目を求めるポツダム宣言を発表。鈴木貫太郎内閣は、宣言受諾を検討する一方、国体、天皇の地位について不明瞭であることから、ひとまず「静観」することに決めた。
 翌28日朝の新聞各紙は国民の戦意高揚をはかる強気の見出しが躍った。午後の鈴木首相の会見では「黙殺」という言葉がクローズアップされ、海外のメディアは「日本はポツダム宣言を拒絶」と報じた。8月6日、アメリカが広島に原爆を投下。天皇陛下は降伏を決意した。9日未明にはソ連が対日参戦。午前の最高戦争指導会議は宣言受諾を前提に、米内光政海相、東郷茂徳外相が天皇の国法上の地位を変更しないことを条件とし、阿南惟幾陸相らは▽占領は小範囲、短期間▽武装解除と戦犯処置は日本人の手にまかせるなど3条件の追加を主張。こうしたやりとりの最中、2発目の原爆が長崎に落ちた。
 結論が出ないまま、9日深夜、吹上御苑内地下防空壕で天皇臨席の御前会議が開かれた。ポツダム宣言受諾の条件を1つにするか、4つにするか。意見は3対3に分かれ、10日午前2時を過ぎたころ、天皇陛下はしぼり出すように、「これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れることは、私の欲していないところである。忠勇なる軍隊を武装解除するのは、情において忍び難いものがあるが、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う」と考えを述べられた。天皇陛下は東郷外相らの意見に賛成、ここに日本の降伏は決定された。
 この聖断に、陸軍省の将校が激しく反発した。「国体護持の確証なき終戦には納得できない」。阿南陸相は各課の幹部を集め、「この上はただただ、大御心のままに進むほかない。和するも戦うも、敵方の回答いかんによる」と述べた。このとき、1人の課員が「それでは、大臣は退くことも考えておられるのか」と詰め寄った。阿南陸相は「不服な者は、まず阿南を斬れ!」と叫び、いまにも暴れ出さんばかりの部下を押しとどめた。「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓で教育されてきた大日本帝国陸軍の将校たちにとって、為政者たちが受け入れようとする降伏は姑息で利己的な命乞いにしか見えない。あくまで本土決戦、徹底抗戦を主張した。
 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝国憲法第1条)。天皇が中心となって国を治めるこの「国体」を守るため、死中に活を求め、軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同畑中健二少佐の5人とともに、日高郡和田村(現美浜町和田)出身の軍務課員椎崎二郎中佐(33)が決起した。東部軍と近衛師団を使って宮城(きゅうじょう)を隔離し、鈴木首相や東郷外相ら和平派要人を捕え、戒厳令を発布して戦争を継続するのだという。それはまぎれもなく非合法な革命、クーデター計画だった。
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椎崎中佐は二重橋と坂下門の間の芝生の上で畑中少佐と並んで自決した
 椎崎中佐は明治44年(1911)9月20日、和田地区入山の北、椎崎豊次郎さんの二男として誕生した。父も日清、日露で出征した軍人で、武勲をたてた軍人軍属に与えられる金鵄(きんし)勲章を受章。子どものころから家の農業を手伝い、体格は兄の安重(やすしげ)さんには及ばなかったものの、体力・学力は群を抜いていた。旧制日高中学校を卒業後、昭和8年(1933)7月、陸軍士官学校(45期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し、歩兵第8連隊付となり、15年(1940)6月、陸軍大学校(53期)を卒業した。大東亜戦争の前は大本営直轄の南支那方面軍参謀などを歴任。開戦時は支那派遣軍傘下の第23軍参謀を務め、満州に展開する関東軍指揮下の第1方面軍参謀などを経て、19年9月、陸軍省軍務局軍務課員となり、20年6月、中佐に進級した。
 「日本のいちばん長い日」といわれた8月14日正午から15日正午までの24時間。椎崎中佐らが考えた宮城隔離計画は、陸軍大臣、参謀総長、東部軍司令官、近衛師団長の四将軍の一致がなければ実行できない。午後3時すぎ、畑中少佐は東部軍司令部の田中静壱司令官に面会を求めたが、入室した途端、「俺のところへ何しに来た。帰れ!」と一喝され、何もいえないまま退散。15日午前1時すぎ、椎崎中佐と井田中佐は近衛第一師団司令部で森赳師団長に決起を求め、森師団長は「これから明治神宮を参拝したうえで再度決断する」と約束した。この直後、上原重太郎大尉らとともに入室した畑中少佐が森師団長をけん銃で撃ち、上原大尉が軍刀でけさがけに斬り斃した。その場にいた椎崎中佐は黙って椅子に座り、呆然としていたという。
 畑中少佐らはすぐさま偽の近衛師団命令を作成、歩兵第二連隊に行動を命じ、それが偽物であることが判明する前に、井田中佐らが東部軍に走って決起を求めた。畑中少佐と椎崎中佐の偽命令伝達により、近衛第二連隊が行動を開始。しかし、田中司令官は鎮圧を決定、東部軍は起たなかった。やがて、師団命令が偽物であることがばれ、放送を阻止しようとした終戦詔書(玉音放送)のレコードも発見できず、畑中少佐が放送局に乗り込み実行しようとした決起の声明の放送も、アナウンサーらの機転で失敗に終わった。
 午前5時半、阿南陸相が官邸の廊下で自刃。6時すぎ、田中軍司令官が宮城に乗り込み、事件を鎮圧した。11時20分、正午の玉音放送開始の準備が進められるなか、椎崎中佐は「死生通神」と記した遺書を残し、二重橋と坂下門の間の芝生で畑中少佐と並んで自決した。
 天皇陛下の聖断であっても、帝国陸軍の軍人精神は降伏、退却を受け入れがたい。連合軍に国土を占領され、武装を解除され、戦犯が処罰されるなか、「最後の1人まで」戦うことで敵に大打撃を与え、少しでもよりよい条件で「休戦」すべきであるという。それが正しかろうが、間違いであろうが、死をも覚悟する愛国的純情に突き動かされる将校、国のために死んでいった英霊、大本営発表にいまなお勝つと信じる国民のためにも、終戦詔書の言葉ひとつをめぐって陸海の大臣が激しく対立した。建軍以来、初の敗戦を突き付けられた歴史の転換点、椎崎中佐ら多くの若き優秀な日本人が自ら命を絶った。
真珠湾から70年④の下 故・椎崎二郎さん