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雪が降る寒さのなか、黙々とがれきの撤去作業を行う自衛隊員
 宮城県沖を震源とする国内観測史上最大、マグニチュード9、震度7の揺れが東北、関東地方を襲ったのが3月11日午後2時46分ごろ。6分後の2時52分には、岩手県知事が自衛隊に災害派遣を要請した。続いて6時50分までに宮城、茨城、福島、青森、北海道、千葉の各知事が派遣を要請。今月10日現在、津波被害の大きかった岩手、宮城、福島の3県で派遣が継続されている。今回、陸海空の自衛隊は災害派遣では史上最大規模の10万6000人(全体の半数近く)を投入し、震災発生直後は負傷者の救出、行方不明者の捜索などにあたり、「トモダチ作戦」の米軍兵と連携して物資の輸送、炊き出し、給水などの生活支援も行った。福島第一原発の周辺では、陸上自衛隊の隊員が海に入って行方不明者を捜索。防護服には放射線量の測定装置をつけ、数値を確認し、暑さと放射線、高波にさらされながらの極限状態の中で作業を続けている。
 陸上自衛隊中部方面隊、第4施設団、第7施設群に属する美浜町の第304水際障害中隊(福永信彦中隊長)も発生翌日の12日、8人の隊員がトレーラーやトラックに乗って被災地へ出発した。その後も隊員が入れ替わりながら、80人余りの隊員の約8割、今月7日までに延べ200人以上が岩手県へ派遣された。現場はリアス式海岸沿岸部の釜石市と大槌町。いずれも大津波で甚大な被害を受け、道路や住宅街を埋め尽くすようにがれきが散乱。その撤去が第304水際障害中隊の任務だった。
 長崎県出身の中村仁士二等陸尉(35)は3月23日から4月20日まで、小隊長として約20人を率いて活動を指揮した。内陸の遠野市にある宿営地から車で約1時間半、初めて釜石市内へ入ったときは雪に震えながら、津波被害の激しさに言葉を失った。地震発生からすでに2週間が経過、幹線道路の国道は何とか通れる状態だったが、住宅街の道は家が倒れ、車が散乱し、漁船が陸に打ち上げられ、どこが道なのか分からない。「周りがどこも同じ風景。折れた電柱が並んでいるのを見て、かろうじてそのラインが道なのだろうと見当がついた」。家の梁、柱、海藻、ブイ、魚網などあらゆるものが散乱し、巨大なタンカーが市場に横倒しになっている。まずは重機が入れるスペースをつくるため、手作業で大きな物を動かした。初日から気の遠くなるような地道な作業。腕が棒のようになり、手袋は一日でボロボロになった。
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被災地ではまず手作業で道を開いたあと、重機でがれきを撤去
 映画で見る戦争の焼け野原のような津波のあと。道がどこなのかも分からないなか、道路もあれば個人の住宅、倒壊したビルなどもある。がれきの撤去は公共性の高い順に進めていくのが鉄則で、まずは車が走行できるよう道路を復旧しなければならない。朝、まだ薄暗いうちに宿営地を出発し、釜石に着いて作業を始めると、自分の家を片づけに来た地元の人に声をかけられた。「兄ちゃん、ちょっと悪いけど、このがれきをどかしてくれ」「この箱を運んでくれませんか」。現場に入った初日、災害派遣が今回が初めてだった中村小隊長は、自衛官として当然のことだと思い、頼まれるままに力を貸した。しかし、この状況で1人に手を貸すと、「うちも」「私も」とキリがなく、自衛隊は頼めば何でも手伝ってくれると誤解を与えてしまう。2日目からは「私たち自衛隊はまず道路を片づけなくてはなりません。申し訳ありませんが...」と断った。腰の曲がったおばあさんが1人で重い家財道具を運んでいたときは、自衛官の任務と人情の間でもどかしかった。
 現場ではがれきの下にあるかもしれない遺体を傷つけないよう、重機の扱いには常に注意するよう指示した。約1カ月に及ぶ作業で、がれきの中から2人の遺体収容を経験。1人目は前の部隊が交代前日に見つけ、2人目は自分たちが発見した。がれきの下から出てきた体の一部を見たとき、「はじめはマネキンかと思った」。さらに手でがれきをどかしてみると、大人の女性だった。「なんともいえない気持ちになりました」。家族や友人との幸せな日常、ふるさとのまちを一瞬にして地獄に変えた巨大地震と大津波。自然災害の恐ろしさをあらためて感じた。
 そんな精神的にも肉体的にもつらい任務の中で、励まされ、自衛官としての誇りと喜びを感じることもあった。朝、宿営地からトラックで現場へ向かう途中、何人もの住民が深々と頭を下げてくれた。解体する家の玄関やドアには、「自衛隊の皆さんありがとう」と感謝の言葉を書いた紙が張られていることもあった。「行政のニーズだけでなく、一般の住民の方からも期待され、頼られているんだ」。そう思えるだけで、疲れは吹っ飛んだ。
 住宅街で重機を使っていると、近所の小学校1年生か2年生ぐらいの3人組の男の子がやってきた。1つの現場にかかる日数は平均4、5日。子どもたちは作業がおもしろいのか、毎日、現場へやってきた。「おじさんたちは明日からほかのところへ行くよ」「次はどこ?」「あっちの方かな」。次の日、それほど遠くない新しい現場に、またいつもの3人がやってきた。「お~い!」。ついうれしくなって声をかけると、子どもたちも笑顔で手を振ってくれた。見るも無残な被災地で、人とのつながりがうれしかった。
 20人規模のチームで進めたがれき撤去作業。早朝から暗くなるまで数日かけて、やっとの思いで1つの場所が片づく。「見ればたしかにそこはきれいなんですが、少し離れた高台などから引いて見ると、どこがきれいになったのかわからない」。後半はとくにそのむなしい徒労感、災害のスケールの大きさが身にしみた。被災地ではいまも7万人の自衛隊員が黙々と、復興・生活支援、行方不明者捜索等にあたっている。