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美浜町の職員が派遣された山田北小学校の避難所、無料バザーのボランティアも訪れた
 
 東日本大震災の被災地支援で和歌山県は、関西広域連合の取り決めから、大阪府とともに岩手県の支援を担当している。その1つとして、北山村を除く29市町と県の職員が交代で、柳田国男の民話集の舞台として有名な遠野市の東、県中部沿岸の下閉伊郡山田町の避難所支援に派遣された。美浜町からは総務政策課防災担当の松永健哉さん(26)と産業建設課の小林巧さん(32)。海から内陸へ約500㍍離れた海抜5・6㍍の山田北小学校の避難所で、地元の県職員とともにかつらぎ町と高野町の職員からバトンを引き継いだ。
 
 リアス式海岸を利用した養殖業が盛んな山田町は津波の被害が大きく、人口約1万8600人(3月1日推計)のうち577人が死亡、273人が行方不明、3184棟が倒壊(いずれも6月5日現在)。松永さんと小林さんが派遣されたとき、山田北小学校には約120人が身を寄せ、7割以上が高齢者だった。体育館の共同生活は食料や物資が足りてるとはいえ、プライバシーがなく互いに気を遣う空間はストレスも大きく、なかにはPTSD(心的外傷後ストレス障害)で不調を訴え、看護師が対応している人もいた。
 和歌山県内の市町職員は1班17、18人で和歌山を出発し、山田町内18カ所の避難所に分散。公民館や体育館などそれぞれの避難所に3泊し、地元の避難者とともに寝起きしながら、体育館では食事の準備、そうじ、換気、弁当配布、物資の搬入などを手伝った。山田北小学校の避難所では山田町の職員がリーダーとして、班長や食事等のスタッフに指示を与えていたが、松永さんらが到着する前日までで撤退。その後、避難者の中から別の人が自主的に仕切り役を買って出たが、このリーダーの交代から避難者の間で不協和音が出始めた。新しくやって来たばかりの松永さんと小林さんにも、避難者は新しい仕切り役に対する不平不満をこぼすようになり、「正直、私たちはその新しいリーダーと避難者の間に板挟み状態でしたが、それを聞いてあげるのも大切な仕事だったように思います」(松永さん)。しかし、和歌山からの職員は、避難所の人たちが顔と名前を覚えたころに交代してしまう。小林さんは「私たちが避難者の方からいろんな要望を聞き、次に来る職員にそれを伝えても、うまく反映されないこともあると思います。3日か4日で人が入れ替わるシステムの中で、 組織づくりの難しさを感じました」という。
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もらった山田町の祭りの写真を見ながら印南町の山西さん㊧と關さん
 
 和歌山県の山田町への人的支援が始まる前、仁坂吉伸知事は「避難所のお世話は私たち和歌山県が全面的に引き受けることになった。これほど大々的、継続的に支援するのは和歌山だけではないか」と胸を張った。29市町と県の職員総勢約130人のチーム和歌山。4月29日から5月22日まで、日高地方からは御坊市4人、美浜町2人、日高町6人、由良町6人、印南町5人、みなべ町1人、日高川町3人の計27人。第1班から第7班まで順次、北陸道経由で1000㌔以上離れた山田町に送り込まれた。
 
 ベテラン、中堅、若手...それぞれのまちで、それぞれの考えで選ばれたメンバー。どのまちでも「行かせてください」という声が上がった。連日、テレビで報道される被災地のニュースに、だれもが「力になりたい」と願っていた。 
 
 印南町からは産業課の山西真央さん(22)と住民福祉課の關(せき)美穂さん(22)の女性2人と男性3人。全員がこの春採用されたばかりの新人だった。最終の第7班で山西さんと關さん、男性職員の3人が配置されたのは、和歌山県の医療支援チームの救護所も開設されている豊間根中学校。避難所は体育館と畳敷きの格技場の2カ所あり、山西さんら女性2人には、体育館の鍵がついたバレー部の元部室が寝る場所として与えられた。
 
 ここでは、津波で家と店を流されてしまった居酒屋の大将ら、料理が得意な飲食店経営者2人が中心となって調理を担当。そのおかげで、「避難所とは思えない凝ったおいしい夕食を食べさせてもらえた」(山西さん)という。仮設住宅へ移ったりで避難者の数が日々、減っていくなか、1人ひとりの負担を軽減するため、食事はできる範囲で弁当にしようという話が出た。このとき、山西さんが仲良くしてもらっていた居酒屋の大将が反対した。「しんどくても、 何かしていないと落ち着かない」。支援する側の思いが避難者の生活リズムを狂わせることもある。また、女性スタッフとして、「重たい水や物資を運んだりする力仕事の面で、どうしても男の人に劣るのがはがゆかった」と振り返る。
 
 避難所にいるのはほとんどが高齢者。少ない楽しみのなかで、モニター付きプレーヤーでDVDを見る人もいた。「山西さん、關さん、ちょっとおいで」。いまから山田町の祭りのDVDを再生するから、みんなで一緒に見ようと声をかけてくれた。獅子舞を演じる人や神輿を担ぐ人、その他いろんな人が伝統の衣装を着て行列を組んでいた。どの顔も楽しそうに笑い、祭り囃子に合わせて踊っている。「こんなに楽しい祭りの風景、あの建物もあの通りもいまはもう見ることができない...」。關さんは胸が締め付けられた。その場にいたおじいさんは「これ、あげるから、お守りにしなさい」と、山西さんと關さんに1枚ずつ、祭りの写真をくれた。大切な思い出の写真。「お守りという言葉に涙があふれそうになりました」。
 
 
 やがてくる南海地震に備え、東北に派遣された和歌山の自治体職員はみな、ふるさとの被害を少しでも小さくできるよう、現地でいくつもの知識を得、経験を積んで帰ってきた。行政だけでなく、民間の救援隊、ボランティア、医師、自衛隊員らに話を聞いた。