岩手県の避難所。小学校の体育館にいまも数十人が身を寄せている。夕方、表で1人、70ぐらいのおばさんが所在なげに座っていた。名刺を渡し、取材であることをことわったうえ、津波がきたときの状況を聞いた。すると、おばさんはズーズー弁でわからない部分もあったが、笑顔を浮かべて話してくれたのが「意外」に思えた。
同じ岩手の津波被害の激しいまち、少し山側へ入ったところで、パチンコ店が営業していた。周りはがれきの山がいくつもあり、ペシャンコの車が何台も転がっていたが、店の駐車場にはけっこうな台数の客の車。一瞬、目を疑ったが、考えてみれば何も不思議ではない。地形や建物の構造から津波被害を免れたのだろう。ギャンブルがしたい、たばこを吸いたい、酒を飲みたい人も多いはず。ごくごく普通の日常だ。
理不尽で涙もかれるようなつらい災害に違いないが、人間はいい意味でも悪い意味でも、「慣れ」という自己防衛機能を持つ。喜びも悲しみも、快感も苦痛も、長く続いたり繰り返すと慣れて刺激が鈍る。震災直後、一番に届いた支援物資はありがたいが、物資があふれ、腹も満たされると、「いらない」という言葉も出るというのは、被災地で実際に聞いた話である。
難民の子どもも、満腹になればごはんを残す。こんな話も、テレビに映像が出ないだけで、そんなことはないという「マスコミ的常識」が植えつけられてはいないか。筆者がパチンコ店の繁盛に驚いたように、生きるため、試練を乗り越えるために必要な「慣れ」を否定してはいけない。今後、被災地で耳を疑う事件が起きたとしても、「被災者=不幸」という色眼鏡を外すだけで、案外了解できるかもしれない。 (静)

