東日本大震災の大津波で甚大な被害が出た三陸沿岸の中で、高さ15㍍以上の防潮堤と水門を建設していた岩手県普代村では住民に死者が出なかったという新聞記事を読んだ。建設を計画したときはあまりにも高すぎると批判があったらしい。それでも当時の村長(故人)が15㍍以上を主張した。なぜか。普代村を含めて三陸は過去に何度も津波被害を受けており、村長には「明治に15㍍の波が来た」という言い伝えが頭から離れず、15㍍以上を譲らなかったという。昔の経験を村民が次の世代に語り継いできたことが、何百年の時を超えて住民の命を守ったといえる。
日高地方にも印南町に似た話が残っている。過去数百年で最も規模が大きかったといわれる1707年の宝永南海地震で多数の死者を出したが、約150年後の1854年の安政南海地震では印南町民の死者はゼロだった。宝永の苦い経験を町民が語り継ぎ、大きな揺れのあとには津波が来る、すぐに高台に避難しなければならないということが、しっかり受け継がれていたからにほかならない。しかし、これで安心して次に語り継がなかったのか、比較的規模が小さかったといわれる1946年の昭和南海では犠牲者を出してしまった。
いま、近未来の発生が懸念される南海地震対策問題に直面しているにもかかわらず、若い世代は昭和南海地震のことをあまり知らないし、知ろうとする意識も低かったのではないだろうか。戦争同様、経験者の高齢化はますます進む。体験者の話を聴く機会を設けたり、実際に聴き取りして本にまとめて今後の参考にすることは、いましかできないことだ。自主防災会や行政が主導して進めていってほしい。 (片)

