
志ん朝の落語を聴くと上手いと思った。しかし凄さはなかった。立川談志には凄さがあった。これが談志に入門した理由である。立川談春十七歳の春のこと。本著は2008年講談社エッセイ賞を受賞している。
高校を中退して談志の弟子になった。落語家に入門すると修行が始まる。しかしこれほどとは思わなかった。これが本著の主題である。
落語家には見習、前座、二つ目、真打とありそして前座までは修行期間である。
談志は言った。「前座の間はどうやったら師匠が喜ぶかそれだけ考えて生きろ。患うほど気を遣え。お前は俺に惚れて落語家になったんだから、本気で惚れてる相手なら死ぬ気で俺に尽くせ」、と。
談志は内弟子は取らない。入門して朝の挨拶をしにいったとたん指示が飛んだ。
「二階のベランダ側の窓の桟が汚れている。綺麗にしろ。スーパーで牛乳買ってこい。庭のツツジがしぼんで汚ねえ、むしっちまえ。シャワーの出がよくない上にお湯がぬるい。原因を調べて直せ。枕カバーを替えとけ。戸袋に鳥が巣を作ったようだ、うまく処理しろ。家の塀を猫が偉そうな顔をして歩きやがる。不愉快だ。空気銃で撃て。庭の八重桜に毛虫がたかると嫌だから、薬まいとけ。探せばそれらしきものがある。なけりゃあ作れ。オリジナリティとはそうゆうものだ。」
これが毎日。談志曰く「修行とは矛盾に耐えることである」と。
入門して一年ほど経つと稽古が始まった。最初は「浮世根問」。しかし談志の凄さは“相手の進歩に合わせながら教える”ということであった。(秀)


