落語家とは「落とし噺」をするところから出た言葉である。しかし江戸や明治の落語家は「落とし噺」だけではなく、「怪談噺」、「人情噺」も演じていた。それも何日にも渡っての「噺」であった。

 本作の三遊亭円朝はその巨匠である。巨匠であるがゆえにいまこの名跡を継ぐ者はいない。

 円朝が止め名となっているのには理由がある。演じることの名人というだけではなく、作品を次々と生み出したその功績が大きいからである。歌舞伎の演目でもある「文七元結」や「塩原多助一代記」「名人長二」等も円朝作である。本作もその一つだ。

 江戸や明治の頃には市中に寄席が二百軒もあった。ゆえに庶民の娯楽は寄席通いであった。この寄席に一つの噺を何日にも亘って演じたのである。本作は明治期に発明された速記術によって記録され後世に伝えられた。しかし、これが単なる口述筆記ではなく、見事な文学となっている。それが後の言文一致体を生み出したのである。

 根津新田にて田畑・長屋を貸し出す萩原新三郎という二十一歳になる浪人者がいた。彼は見目麗しくいかにも清々しい若者であった。あるとき店子の伴蔵を伴って梅花で有名な屋敷に梅見に訪れる。この屋敷には十七歳になる旗本のお嬢様・露姫が暮らしていた。ふたりは一目見たときからたちまち恋に落ち、互いに逢瀬を重ねることとなった。これが旗本の父の飯島平左衛門に知れると、父は激怒し露は閉じ込められてしまう。お露の新三郎を思う心は日に日につのり、お露はついに恋死にしてしまった。

 新三郎は露が死んだことを知らなかった。そんな新三郎の元へ牡丹燈篭を下げた下女と露が毎晩通ってくる。夜中に新三郎の屋敷から女の声がすることを不審に思った伴蔵は、密かに忍び込み覗き込むと、蚊帳を吊った部屋のなかで新三郎と幽霊の露が仲睦まじく語らっていたのである。しかし、新三郎は日ごとに衰えていった。このまま幽霊と逢瀬を続ければ新三郎は死んでしまうと懸念した伴蔵は高名な住職に相談した。すると住職から幽霊除けのお札と海音如来の厨子を授かった。これを持って新三郎の屋敷へ向かったのであった。

 この噺を圓朝は十五日間(当時寄席は十五日興行、現在は十日)に亘って公演したのである。そしてこれが文学であると認識されたことにより、山田美妙や二葉亭四迷などの口語体文学が生まれる端緒へと繋がっていったのである。(秀)