終戦後の1946年(昭和21)10月、二十歳になったばかりの眞琴さんは、御坊出身で8つ年上の満次(みつじ)さんと結婚した。満次さんは大学を卒業後、化学工業メーカーの日本窒素肥料に就職。戦時中は朝鮮半島北部(現北朝鮮)の工場で働き、引き揚げの混乱時には、現地の日本人の女性や子どもを連れて南へ逃れた。グズグズしていると、背後から迫るソ連軍や暴徒化した現地軍民に見つかる。集団のリーダーを命じられていたため、他人の子を背負い、泣き叫ぶ幼子をあやしながら、フラフラになって山を越え、南を目指した。
会社は戦後、組織の改編が行われ、満次さんが眞琴さんと結婚したときの勤務先は旭化成工業(現旭化成)となっていた。会社の発祥の地の宮崎県延岡での生活が20年ほど続き、その間、2人の娘が生まれた。最後の勤務地は御坊市藤田町にあった和歌山工場で、工場長として定年を迎えた。

眞琴さんが転勤族の満次さんと結婚し、小浦の実家は再び静子さんだけになった。終戦から1年以上が過ぎたある日、御坊から湯川憲文(けんぶん)という男性が訪ねてきた。中国大陸で眞澄さんの部隊を率いた元軍人で、戦地で亡くなった部下の実家を一軒一軒訪ね、元上官として遺族への謝罪を続けていた。戦病死だった眞澄さんの母静子さんに、「薬さえあれば死ぬことはなかった。このような結果となって本当に申し訳ございません」と深々と頭を下げた。
湯川さんは御坊の源行寺というお寺の住職で、自身が中国へ出征中の45年6月7日、米軍のB29が投下した大型爆弾が実家の寺を直撃した。近くの軍需工場を狙ってそれたとみられるこの一撃により、境内の防空壕へ逃げ込んだ妻すま子さん(当時33歳)と子ども3人が爆死した。互いに最愛の家族を失った者同士、静子さんは自分以上の苦しみであろう湯川さんにかける言葉が見つからず、いつまでも顔を上げることができなかった。
あの戦争が終わって81年目の夏。眞琴さんは100歳になったいまも、子どものころから女手一つで家を守る母をいたわり、自分にもやさしかった兄眞澄さんの死が悔やまれてならない。「本当ならまだ行く必要のなかった徴兵検査で兵隊にとられました。人より体が大きく、強かった自分が戦地で思わぬ病に倒れ、最期はどれほど無念だったでしょう。それを思うと、いまも涙があふれて止まりません」。
遺族として、天皇陛下には何の恨みもないが、他国から何をいわれようと、祖国を守るために戦場で命を落とした英霊のため、靖国神社に参拝していただきたいと願っている。
(おわり)
この連載は玉井圭、田端みのりが担当しました。


