まだ穏やかだった学生時代
御坊市の宮本眞琴さん
「日高高等女学校(現日高高校)の3年生のときにアメリカとの戦争が始まりました。当時、音楽といえば学校の授業やラジオで軍歌ばかりを聞いていました。乃木大将とステッセル将軍の会見の歌(水師営の会見)はいまも歌詞を覚えていますし、軍艦マーチをうたうとちょっと気分が高揚します」と笑う眞琴さん。先月26日、めでたく満100歳の誕生日を迎えた。
生まれたのはカナダのバンクーバー。メインストリートで小さな雑貨店を経営していた父芳助(よしすけ)さんと母静子さんの次女として誕生したが、眞琴さんが2歳のときに芳助さんが病気で死去。静子さんは幼い3人の子どもを連れて日本へ戻り、日高郡比井崎村(現日高町)小浦の芳助さんの実家で新生活をスタートさせた。

大黒柱を失った一家は、静子さんがみかん栽培の農業をしながら茶道と生け花の指導で生計を立て、日米開戦後はみかんの収穫期になると、村に駐屯していた若い兵隊を畑に招き、叺(かます)という稲わらで編んだ袋を渡して「どうぞ好きなだけお持ち帰りください」と、気前よくみかんをプレゼントした。
1939年(昭和14)、地元の小学校を卒業した眞琴さんは、6歳はなれた姉の明子(はるこ)さんと同じ日高高等女学校へ入学した。明子さんが生活した学校の寄宿舎には入らず、毎日、自転車で小浦、小坂の2つの峠を越え、小池、和田、松原から田井の常福寺の裏を通って学校へ通った。
3年生の41年(昭和16)12月に米国との戦争が始まり、わずか半年後の42年(昭和17)4月には米軍爆撃機による初めての本土空襲があった。その日は西山への遠足が行われ、眞琴さんら生徒は歩いて学校へ戻ってきたとき、先生からそのニュースを聞いた。狙われたのは東京、横浜、名古屋、神戸など数十カ所に上り、全国の被害は死者が約90人、負傷者は400人以上。のちに「ドーリットル空襲」と呼ばれた洋上空母からの直接攻撃は、南方の快進撃に沸いていた日本国民に衝撃を与えた。
本土空襲が本格化する前の43年(昭和18)3月、眞琴さんは日高高女を卒業し、約半年後には竣工したばかりの三重の鈴鹿海軍工廠に就職した。このとき、明子さんはすでに結婚して神戸で生活していたため、眞琴さんが鈴鹿へ行くと実家は母静子さんと一つ上の兄眞澄さんの2人だけになるが、母は眞琴さんの「大好きな海軍でお国のために仕事をしたい」という思いを聞いて反対することもなく、黙って送り出してくれた。


