息子の死を語らなかった両親
日高川町の山本羨也さん(80)
日高川町初湯川、笠松の山本羨也(せんや)さんは終戦翌年の1946年(昭和21)3月に生まれ、その約半年前の45年8月27日、山本家の長男喜代治(きよじ)さんが亡くなった。家族からは、喜代治さんは陸軍の兵士として中国の戦場へ送られ、最期は現地にあった軍の兵役病院で死んだと聞いていた。両親とも子どもには、戦争と喜代治さんに関する話をしないまま亡くなり、家にも喜代治さんの兵籍や軍歴が分かる書類等は何もないため、羨也さんも現在に至るまで喜代治さんの最期の具体的なことは分からないという。
羨也さんの父長市(ちょういち)さんは若いころ、山仕事(林業)の組に入って、山からスギやヒノキを切り出し、丸太を載せて川を下る筏の出発地点まで運ぶ仕事をしていた。伐採、運搬などの力仕事以外にも、横(よこ)と呼ばれる会計係も任されていた。
「親父はあまり体が丈夫でなかったかわりに、そろばんは得意だったそうです。だから横として会計の仕事は適任だったんでしょう」。羨也さんの兄が大きくなって同じ山仕事に就き、一人前になってからは、少し早めにリタイアした。
羨也さんは8人きょうだいの末っ子(六男)。父長市さんが妻おりゅさんと再婚したとき、先妻との間の子どもが6人(4男2女)おり、おりゅさん自身は羨也さんら2人の男の子を出産した。

43年(昭和18)2月、長男喜代治さんが陸軍に入隊した。初年兵の教育と訓練を受けて送られたのは中国。出港の際は長市さんが1人で港まで出向き、見送った。このとき、母親のおりゅさんは自分も一緒に行きたかったが、五男の善司(ぜんじ)さんが生まれたばかりだったこともあり、あきらめた。
このころから太平洋・南方地域は日本が守勢に回り、大陸奥地へ伸びる中国の戦線は弾薬、食料など物資が十分に届かなくなり、病に倒れ、命を落とす兵も少なくなかった。喜代治さんが亡くなったのは終戦直後の45年(昭和20)8月27日。実家の仏壇に飾られた位牌の木札には享年22と書かれており、病院で死んだとは聞いていたが、その原因が戦場での負傷なのか、病気だったのかははっきりしない。
ともに温厚で控えめな性格だった羨也さんの父と母。長市さんは終戦から21年後の66年(昭和41)に66歳で、おりゅさんは94年(平成6)に84歳で亡くなった。
「まだ若かった長男を戦争で亡くし、両親はどれほどつらく悲しかったか。もし喜代治さんが生きていたら、父と一緒に山の仕事をしていたでしょうし、父もそれを望んでいたと思います」。
戦後、きょうだいでただ1人、地元に残った羨也さんは村の職員となり、両親に代わって遺族会の活動に積極的に参加した。


