本書は最新研究に基づき書かれている。例えば秀吉の正室が寧(北政所)で茶々(淀君)が側室とされたのが通説であったが、これは間違いであるとする。一夫一婦制は江戸時代に確立されたが、戦国時代は一夫多妻制であったという。そこで正室と側室の区別は御殿か部屋住みの違いだ。茶々は伏見城の西の丸御殿で暮らし「西の丸殿」と呼ばれていた。これは正室の扱いであり側室ではない。また茶々は懐妊した際に産所としての淀城で暮らす。単に御殿ではなくお城まで与えられていたことは側室であろうはずはない。淀君という名で知られるが、最新の研究では淀君と呼ばれた形跡はないという。茶々は妻の尊称である「御上様」、「御内」「北御方」などと呼ばれた。さらに淀城で鶴松(三歳で死亡)や拾(秀頼)を産んでからは「大坂様、大坂二の丸様、(伏見城)西の丸様、よどの者」などと御殿名で呼ばれるようになった。つまり、秀吉の妻の一人として扱いを受けていたのだ。このことは京極龍や前田摩阿など秀吉の他の妻たちも同様であるという。

 また秀吉の容貌は猿顔であったとされ、ドラマでは信長から「猿」と呼ばれたりするが、実際は「猿」よりも鼠顔であった。また頭も薄かったことから信長からは「禿げ鼠」と呼ばれていたというのが本当らしい。来年の大河ドラマの池松壮亮のような男前ではなかったことは確かである。本書では秀吉に纏わる多くの女性たちが記される。

 秀吉の母「大政所(おおまんどころ)」、そして秀吉の姉や妹、信長の娘、秀吉の娘の豪、秀頼の妻千姫など、総勢四十名が最新研究に基づき記されている。大坂落城した際に脱出した奥女中の菊までも、である。「おきく物語」として本書にあるので最後に記しておく。

 菊は落城時二十歳だった。落城の日、菊は奥御殿にいたがまだ落城とは思わなかったので、下女に蕎麦焼きを作ることを命じた。ところがすぐに下女が戻ってきて「玉造口が焼けている。それ以外にもあちらこちらも燃えている」と伝えてきた。千畳敷の縁側に出ると、確かにそこここに火の手が上がっていた。急いで奥御殿に戻り、帷子を三枚重ねて、秀頼から拝領した鏡を懐に入れて台所から脱出した。ようやく城外に出ると竹藪から武士が出てきて「金を出せ」と言う。持ち出した金の棒を渡して難を逃れ這う這うの体で森口まで逃げた。これが大坂城落城の実態である。(秀)