日本芸能史上ただ一人処刑された芸能人が江戸時代に存在した。九代将軍家重の御代である。その人の名は講釈師馬場文耕。

 あるとき裏長屋に暮らす馬場文耕の家の前に大名駕籠が止まった。貧しい人々が暮らす長屋にはまったく似つかわしくない。駕籠の側用人が文耕の部屋の扉を開けて語りかけてきた。

 「お迎えにあがりました。どうぞ、お駕籠へ」

 文耕は促されるまま行先も分からぬ駕籠の中へと入った。駕籠は御曲輪内(おくるわうち・江戸城内)へと入って行く。文耕には何が何だか分からなかった。

 将軍は馬場文耕の講釈が聴きたかったのである。

 講釈とは講談と呼ばれる話芸であるが、始まりは室町時代の太平記読みである。これが江戸時代に入り、単に「太平記」のような軍記物を素読するだけではなく「解釈」を付けて語られるようになった。そこで講釈師が登場した。馬場文耕はまさにその人であった。さらに、馬場文耕はこれに一工夫を加え、歌舞伎からヒントを得て、江戸の市井を描いた「世話物」という語りを作り出した。この「世話物」が従来の講釈にはなかったため、江戸市中で大変な評判を呼んだ。これが将軍家重の耳にも入り、文耕の講釈を聴きたいと望んだのであった。しかし、やや不満も残った。それは文耕の講釈の一つに家重を揶揄した「小便公方」がありこれを語らなかったからである。家重はこれを聴きたかったのだ。九代将軍徳川家重は八代将軍吉宗の嫡子。しかし愚鈍であり頻繁に小用をすることから「小便公方」と揶揄されていた。

 家重の心を捉えた文耕の講釈であったが、当然江戸庶民に大喝采を博したのは時の為政者の愚行を描いたものである。

 秋田佐竹藩の世継ぎに関するお家騒動、岐阜郡上金森藩の年貢取り立てに関する百姓一揆や駕籠訴(殿様の駕籠の前に跪き訴状を出すこと)、箱訴(目安箱に訴状を入れること。将軍家へ窮状を直接訴える)等の直訴である。

 文耕はこれらを民衆の立場から講釈し、また「美濃笠濡らす森の雫(みのかさぬらすもりのしずく)」という本にして出版した。しかし、これが将軍家をないがしろにしたものとして、馬場文耕は獄門の刑に処せられた。首を撥ねたのち、獄門台と呼ばれる台上に首を晒される刑である。

 本書は沢木耕太郎の初の時代小説であるが、当時の農民や江戸の庶民の悲哀を描いた傑作小説だと、私には思える。(秀)