
昔は「ワイロ政治家」というのが定説だった江戸後期の老中・田沼意次。近年は研究によって評価が180度変わり、NHK大河「べらぼう」では渡辺謙が演じています。彼の生涯を、正直者の意味を持つタイトルを冠して真正面からとらえた傑作長編をご紹介します。
物語 江戸幕府10代将軍徳川家治の側室に子が生まれようとしている夜。江戸城天守台で不寝番を務める若者、松本十郎兵衛の前に突然2人の侍が現れた。一人は上様の御側衆水野忠友、目付きの鋭いもう一人はただ「呉服橋」と名乗る。高い身分の人物の出現に十郎兵衛は驚くが、彼等は気さくに米の相場などについて話し、十郎兵衛にも江戸城の費えについて意見を求める。日頃から商いの成り立ちに関心のあった十郎兵衛は「役所に配る筆や紙を、現物ではなく金子を与えて各々で買わせては」など案を出し、2人を感心させる。
「呉服橋」の正体は将軍の最側近、田沼意次であった。十郎兵衛は低い家柄だったが、この夜の歓談から勘定方に取り立てられ、やがて蝦夷地の開発をも見すえた田沼政治の一翼を担っていく。
上に紹介したのは冒頭の一場面ですが、意次が身分にかかわらず人材をよく見て登用する合理的な精神の持ち主であることが描かれ、象徴的です。
小学校の時に愛読した「まんが日本の歴史」(小学館)では菓子折りの小判を見て喜ぶ悪い政治家として描かれていましたが、三十数年前、高校でかつて日本史を教えていた父が「ワイロをもらっていたかどうかはともかく、世をよくする政治に取り組み実績を上げたことはきちんと評価しなければならない」と言うのを聞いて「へえ」と思いました。そしてその後、いろんな作品で田沼評価がどんどん上がっていくのを目の当たりにしたのでした。
本書の意次はスケールの大きな政局観を持ち、温かみとユーモアを備えた人物で、信念をもって政を行っています。飄々とした言動が実に魅力的。
「御役を懸命に果たして世を前に進める、それ以上の楽しみがあるはずもない。一体、人はなぜ頼みごとをするのに物をいちいち持って来るのか」
この一文が、本書での田沼意次の人物像を端的に表しています。
綾乃という打てば響くような素晴らしいパートナーとの絆も読み応えがあり、夫婦の愛の物語でもあったのだなと読み終わって思いました。豊かな内容を含んだ、懐の深い物語です。(里)


