沢田教一はピュリツァー賞を受賞した青森県出身のカメラマンである。受賞作の「安全への逃避」は本書の表紙で、ベトナム戦争の悲惨さを伝えるものとして有名な写真である。彼は当時UPI通信のカメラマンであった。

 ベトナム戦争は一九五九年、米国が南ベトナムを支援するとして軍事顧問団を送ったことに始まる。一九六四年になると米軍が本格的に参戦、一九七三年まで続いた。米参戦の理由は南北に分かれていたベトナムの共産化阻止であった。沖縄からも多くの戦闘機や爆撃機が発進している。戦争の現状を伝えるべく毎日新聞東京本社の一角にあったUPI通信社からも多くの取材班が派遣、その一人が沢田であった。

 沢田は一九六五年にベトナムに渡ると多くの惨劇をカメラに収めた。沢田の愛用のカメラはライカM2である。沢田はサンデー毎日(昭和四二年六月十八日号)に次のように寄稿している。

 ―快晴、気温四十三度 湿度八五パーセント、着込んだ防弾チョッキはまったく風を通さない。火を吹くかと思わせる暑さだ。もう汗も出ない。(中略)狙撃兵の発砲と同時に、自動小銃がうなり、海兵隊はやぶの中にくぎづけとなった。(中略)「衛生兵、衛生兵」と大声で叫びつづけた。私の目の前では、T・ウエスト伍長がもう一人の負傷兵の応急手当をしている。斜め前でM16ライフルを撃っていた海兵隊員二人が、どっと音を立てて、私の方へ倒れてきた。衛生兵はまだ来ない。時計は午後五時四十分。太陽はまだきびしく照りつけている。―

 一九六六年、米軍は「索敵掃滅作戦」を開始。沢田はこれにも同行、ベトナム中部の海沿いの街クイニョンにやってきた。

 海兵隊はF100戦闘爆撃機からナパーム弾を投下する。空からの攻撃に村人たちはいっせいに逃げだす。爆撃で家も吹っ飛び爆音が耳をつんざく。村人はわれがちに川へ飛び込んだ。沢田は対岸から、死に物狂いで川を渡って逃げて来るベトナム人母子五人の姿にレンズを向け、次々とシャッターを切った。対岸にたどり着いたときこの母親は沢田の足にすがりつき「助けてください…」と言った。沢田はこの母子五人を安全な場所に連れて行った。このときの写真がピュリツァー賞受賞作品。しかし一九七〇年、沢田自身も銃弾に斃れたのだ。

 今もウクライナやイスラエルで戦争が繰り返されている。こんな悲惨なことは一刻も早く終わりにしなければいけない。(秀)