全国的に休会、解散相次ぐ

 1945年(昭和20)11月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は米国政府の意向を受け、無条件降伏を受け入れた日本の政府に対し、神道への公金支出を禁止する覚書、いわゆる神道指令(しんとうしれい)を伝達した。信教の自由の確立、政教分離などがその目的だったが、なにより大きかったのは軍国主義の排除。これにより、戦死者を祭る靖国神社が国との関係を絶たれ、国のために戦場で名誉の死を遂げ、「誉の家」として尊敬された戦没者遺族は肩身が狭くなり、恩給も停止されるなど社会的冷遇を受けた。

 大黒柱を失い、年老いた父母を抱え、幼い遺児を育てる戦争未亡人ら。全国の遺族が手を取り合って立ち上がり、47年(昭和22)11月、全国組織の日本遺族厚生連盟が発足した。日本が独立を回復した52年(昭和27)には戦傷病者戦没者遺族等援護法が制定され、全国各地で英霊の顕彰と慰霊、遺族の処遇向上、福祉の増進等を目的とする遺族会が組織された。

 戦没者遺族の全国組織、日本遺族会の集計によると、同会の支部にあたる47都道府県の遺族会会員世帯数は、最も多かった1967年(昭和42)で約125万世帯。しかし、その数は遺族の高齢化とともに年々減少傾向にあり、5年前の2019年にはピーク時の半分以下、約57万世帯にまで減少した。

 いまから8年前の2016年(平成28)3月、神奈川県遺族会に加盟し、横須賀市内の戦没者遺族でつくる横須賀遺族会が解散した。終戦翌年の1946年(昭和21)8月、県遺族会横須賀支部として設立され、多いときは戦没者の妻ら約4000人もの会員がいたが、解散前にはその10分の1まで減少。県内56団体の遺族会で初めての解散となった理由は、会員の減少と高齢化、子や孫世代の担い手不足が最も大きかった。

 同じ理由から解散、活動休止を余儀なくされる遺族会は後を絶たず、北海道では2005年(平成17)から10年間で40以上の遺族会が解散。19年(令和元)6月には、1944年(昭和19)に鹿児島県徳之島沖で米軍に撃沈された輸送船「富山丸」の犠牲者遺族でつくる愛媛県の富山丸遺族会が解散した。

 和歌山県内も以前は各市町村に遺族会があり、それぞれの地域ごとに追悼行事を主催し、さらに市・郡単位、県全体の行事が行われてきたが、一つひとつをよくみれば実態が少しずつ変化しつつある。御坊市の遺族会は2014年(平成26)まで毎年4月に日高別院で仏式の追悼法要(御坊市仏教会と共催)を行っていたが、翌15年からは市との共催事業として会場を福祉センターに移し、無宗教の追悼式に変更。献花の花も菊から御坊特産のスターチスに変わった。

 美浜町も以前は各市町村と同様、遺族会として追悼行事を行ってきたが、役員・会員の高齢化と減少から、現在は町長が会長を務める町遺族援護会という団体の主催で追悼法要を実施している。以前からの遺族会は解散こそしていないものの、役員はなく事業も行っておらず、実質は休眠状態にあるという。

 こうした担い手不足の状況が進む背景には、遺児世代の高齢化だけでなく、50歳を過ぎて地域でも職場でも中心となった戦没者の孫世代の忙しさがあり、時間の経過に伴う戦争の記憶の風化、遺族としての意識の変化も小さくない。

コロナでさらに高齢化の波

現在は県が主催し、無宗教形式で行われている県戦没者追悼式(今年5月5日・県民文化会館大ホール、県提供)

 全国民に占める戦後生まれの割合は、終戦から70年を迎えた2015年で8割を超え、昨年4月に公表された人口推計では戦後生まれが87%となった。和歌山県遺族連合会によると、県内の遺族会の会員数は18年前の2006年(平成18)が約1万8400人で、8年後の14年(平成26)9月には約3割(5700人)少ない約1万2700人まで減少した。その後、公式な集計はされていないが、現在、9市部遺族会のうち海南市が休会(下津町と合併する前の旧海南市遺族会は活動を継続)しており、6郡部遺族会でも東牟婁郡が活動休止中。全国的な傾向と同じく、県内の遺族会会員も右肩下がりとなっている。

 遺族会の最も重要な活動に戦没者の慰霊祭や追悼法要があるが、会員の高齢化と後継者不足により、県内市町村遺族会や県連合会でもその運営が難しくなっている。県全体の式典としては2012年(平成24)まで、毎年5月5日の午前に和歌山市西高松の忠霊塔(平和の塔)で県仏教会と県遺族連合会による仏式の追悼法要、午後に同市一番丁の和歌山城内にある和歌山縣護國神社で同神社と県遺族連合会による神式の春季例大祭を行っていたが、連合会の中でこのままではいずれ継続できなくなると不安の声が高まり、連合会側の要望を受ける形で13年(平成25)からは県が主催する戦没者追悼式として、県民文化会館大ホールで行われている。

 県遺族連合会の服部康伸事務局長(84)によると、県に主催のバトンタッチを要望したとき、知事は仁坂吉伸氏、県の遺族会担当課長は厚生労働省から出向していた人だった。当時の会長とともに県庁へ要望に出向いた連合会の服部事務局長は、「私たちが事情を説明のうえお願いしたところ、課長は全国的な遺族会の状況や問題点をよく理解されておられたので、『分かりました。今後は県が主催するのが当然です』といっていただけました」と振り返る。13年からは県が主催する戦没者追悼式として無宗教の形式となり、慰霊の対象も軍人・軍属だけでなく空襲等の戦災犠牲者も含まれるようになった。

 忠霊塔の追悼法要、護國神社の春季例大祭はともに現在も5月5日に行われているが、遺族連合会は従来の共催から外れ、現在はそれぞれ県仏教会、護国神社の主催事業となり、連合会は招待者として参列。今年も午前9時20分から追悼法要、11時から戦没者追悼式、午後1時半から春季例大祭が行われ、各会場とも約400人が参加した。

 この3つの行事に参加するのはほぼ同じ顔ぶれで、以前は県内各地から約600人が参加していた。しかし、中止も余儀なくされたコロナ禍が明けたあとは半分の約300人まで減り、今年は400人止まり。服部事務局長は「一日に3つの行事に参加するのは、お年寄りにとって体力的に厳しく、コロナ禍の数年の間にさらに急速に高齢化の波が押し寄せた感じがします。なんとかコロナ前の参加人数に戻そうと、頑張ってはいるんですがね…」という。

 県遺族連合会は9年前の2015年(平成27)、戦後70年記念事業として、戦争で父親やおじを亡くした遺児の手記をまとめた書籍を発刊した。終戦から80年の節目となる来年は、戦後、各地に建立された戦没者の慰霊碑をまとめた冊子の発行を計画しており、各市・郡の遺族会と連携しながら、その編集作業が進んでいる。