日本人の海外移住が始まったのは、江戸幕府が230年以上続けた海外渡航禁止令、いわゆる鎖国が解かれて2年後の1868年(明治元)。横浜在住の米国人商人がサトウキビプランテーションの労働力として、日本人男女153人をハワイ、40人余りをグアム島へ送り出した。この自らの意思で海を渡った一行は「元年者(がんねんもの)」と呼ばれたが、渡航先で不慣れな気候下の過酷な労働、物価高による困窮に苦しみ、明治政府が救出に乗り出した。
その後、移住先は米国、カナダの北米、ペルーやブラジルなど南米へと広がり、独立行政法人国際協力機構(JICA)によると、2021年現在、全世界に380万人以上の海外移住者や日系人がいて、うち約6割に当たる220万人以上が中南米諸国に住んでいるという。
和歌山県からの海外移住は第2次大戦前が約3万1000人、戦後は約2000人で、都道府県別では広島、沖縄、熊本などに次ぎ6番目に多かった。移住先はハワイ、米国西海岸、カナダ、ブラジルなど。1888年(明治21)には日高郡三尾村(現美浜町三尾)の工野儀兵衛がカナダBC州南西部の港町に移り住み、食料品店や鮭漁など事業を拡大しながら、故郷三尾村から親類など多くの村民を呼び寄せた。
日系移民は厳しい労働条件、生活環境に耐え、勤勉さで白人や他の民族の移民を圧倒した。漁業が盛んなリッチモンドのスティーブストンでは三尾からの移民ら日系人が主導権を握ったが、日系人が増えるにつれ、白人たちの反移民感情が高まり、日本人街が暴徒に襲撃される事件も頻発した。1908年(明治41)にカナダと日本は移民数に制限を設ける協定を結んだが、結婚した女性の渡航は無制限だったため、カナダへ渡った日本人男性と日本の女性が写真と履歴書を交換し、互いに気に入れば会わずに結婚を決める「写真結婚」が流行した。
この写真結婚はカナダだけでなく米国移民の間でも行われ、移民一世の呼び寄せ時代に一種の結婚習慣として広がった。カナダへは三尾村など日本各地から多くの写真花嫁が片道切符で船に乗り、夢と希望を抱いて太平洋を渡った。現地で初めて会った夫と家庭を持ち、子どもにも恵まれ幸せに暮らした人もいた一方、想像とは違う現実から逃げ出し、身を落とす女性もいた。会ったこともない男女が一枚の写真を交換しただけで籍を入れ、不慣れな異国で結婚生活を始めるというのは想像以上の困難が伴う。はるばる海を渡ってきた女性が、写真とは似ても似つかぬ夫に落胆、聞かされていた話とは違う生活に失望し、周囲にあふれる若い独身男性と駆け落ちするケースも少なからずあった。
ノンフィクション作家工藤美代子氏の「カナダ遊妓楼に降る雪は」によると、写真結婚がうまくいかず、駆け落ちした男女は社会の落伍者とみなされ、再び受け入れてくれる日本人の労働キャンプはどこにもなかった。生きるため、遠く離れた新開の地で娼婦となった人もいたという歴史の暗部を紹介し、取材で証言してくれた移民一世の男性の口から出た「これもみんな写真結婚のせいやなぁ。あないな結婚をしとったら、駆け落ちしたくなるのも無理ないわなぁ…」という言葉に、彼女たちの末路が哀れでならなかったという。
厳しい寒さ、言葉も通じぬ異国の地で、身を寄せ合い、歯を食いしばって苦難に耐えたカナダの日系移民。時代が明治から大正、昭和に変わると、国家間の戦争、世界大戦という荒波にほんろうされることになる。