硫黄島は東京から1200キロ離れた東京都小笠原村に属する無人島である。しかし戦前は千人もの住民が住んでいた。現在は米軍と自衛隊の共同管理下に置かれている。ここは太平洋戦争時における激戦地の一つである。著者の酒井聡平氏の祖父は、この硫黄島の近くの父島で訣別の電報を受けた通信兵であった。
その電報とは、
1945年3月17日午後5時50分。
「本戦闘ノ特色ハ敵ハ地上ニ在リテ 友軍ハ地下ニ在リ」、
これは決戦開始の電報である。
そして最期の電報は、
「サヨウナラ サヨウナラ オセワニナリマシタ」
「父島ノ皆サン サヨウナラ」
この電報を最後にして36日間の戦闘は終了した。硫黄島守備隊二万三千人のうち死者は二万二千人に上った。
著者は北海道新聞の記者として、硫黄島の遺骨収集団に加わり、未だに一万人以上の遺骨が本土に戻れずにいることを知った。硫黄島遺骨収集団はこれまでも数回行われてきた。しかし、遺骨収集は遅々として進まなかったのである。著者はその理由を探るうち、ある事実を知る。
米国と日本政府の間に密約が交わされていたのである。さらに、この島が「核」の島としても利用されていたことを知った。
現在、硫黄島は米軍が使用し、その滑走路で米軍機が離発着訓練を行っている。この滑走路には遺骨収集団は入れない。未だに一万人以上の遺骨が収容されていないのは、滑走路の下に遺骨が埋まっているからではないのかと著者は考えるようになる。それだけではない。米軍の資料を調べるうちにとんでもないことが分かってきた。それは「核」さえ持ち込まれていたということである。
もちろん日本政府はそんなことは認めていない。また、それ以上のことも分かってきた。米軍は核実験もやっていたのである。
1956年2月19日付米軍機関紙「星条旗新聞」に摺鉢山を背景にしたキノコ雲の写真が掲載されていた。もちろんそんなことは日本政府は認めようもない。
唯一の被爆国である日本でこんなことは許されるはずもないのである。日本政府はもとより報道機関もこの事実は公表していないが、この本だけがこのことを知らしめている。
1968年の小笠原返還時に日本と米国に「密約」があったこともこの本には書かれている。それは「A―1331」(米国公文書館機密文書・非公開)。
1994年、上皇陛下が硫黄島を慰霊に訪れた。そのとき詠まれた、
精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき
この御製を、政府はどう受け止めるのだろうか。(注・キノコ雲は核戦争を想定した演習であったと後に判明する)(秀)