両親が日本統治の朝鮮へ

 明治期の日清、日露戦争に勝利した日本は、なお南下をうかがう対ロシアの緩衝地帯として朝鮮半島の安定を目指し、実質的な支配に向けて動き始めた。1905年(明治38)には第2次日韓協約締結を経て漢城(現ソウル)に韓国統監府を設置。翌年、伊藤博文が初代統監に就任した。穏健派の伊藤は併合を求める軍部と対立しながら、保護国大韓帝国の独立国家としての基盤強化、民主化を進めたが、現地では激しい抗日運動が続き、09年(明治42)10月、ハルピン駅で独立運動家の凶弾に斃れた。この事件を機に流れは保護国から併合へと変わり、10年(明治43)8月、日本側の寺内正毅統監、韓国側の李完用首相が韓国併合条約(韓国併合ニ関スル条約)に調印。その後、1945年(昭和20)の大東亜戦争終結まで35年間、日本による朝鮮半島統治が続いた。

 御坊市藤田町藤井の元小学校教諭、大津妙子さん(92)は1931年(昭和6)1月、日本が統治していた朝鮮半島の忠清南道(現大韓民国中部)洪城(ハンソン)郡洪州(コウシュウ)面玉官(ゴカン)里で生まれた。両親はともに日本人で、父寛正(ひろまさ)さんは石川県金沢、母トシさんは福岡県大牟田の出身。寛正さんは県立金沢一中を卒業して陸軍の騎兵隊に入隊、除隊後、朝鮮総督府検事局の検事をしながら両親と暮らしていた長兄を頼って半島へ移った。トシさんは福岡の門司市立高等女学校を出たあと、実家の大丸呉服店が当時、日本の着物を扱う店がなかった朝鮮に移って商売を始めることになり、大牟田の店をたたんで一家で忠清南道の江景(カンギョン)へ移住。そこで、知り合いの日本人の紹介で警察官になっていた寛正さんと見合いで結ばれ、男3人、女2人の5人の子どもに恵まれた。

 1937年(昭和12)7月、妙子さんが小学1年生だったとき、中国大陸で支那事変(日中戦争)が勃発。翌年、ひと回り以上年上の長男義彦さん(当時20歳)は召集令状を受け、陸軍に入隊後、内地の久留米の西部第51部隊で訓練を受けた。その後、義彦さんより4歳下の次男潤治さんにも赤紙が届き、洪城で武運を祈る祈願祭が行われた41年(昭和16)12月8日、日本は中華民国に続いて米国との戦争に突入。陸軍の野砲隊に配属された潤治さんは、南方で最も過酷な戦場といわれたニューギニアへ送られ、44年(昭和19)2月、22歳で戦死した。さらに7カ月後の9月、陸軍の金光恵次郎少佐率いる野砲兵第56連隊第3大隊の本部付として、援蒋ルートを遮断するため、ビルマと中国の国境付近で行われた拉孟(らもう)の戦いに参加していた義彦さんも、約1300人の仲間とともに全滅、26歳の若さで戦死した。妙子さんら家族はその事実を軍からではなく、新聞に載った「拉孟守備隊 玉砕」の記事を見て知った。

 義彦さんの入営日が決まったあと、父の寛正さんが近所の写真店に頼み、家の前できょうだい5人の記念写真を撮ることになった。このとき、小学1年生だった妙子さんは、義彦さんが5人で写真を撮ることをいやがっていたのを覚えている。カメラが趣味で、家の押し入れを暗室代わりに現像もするほどのめり込んでいた写真だったが、自分が撮られることは嫌がった。ただ恥ずかしいだけなのか、それとも何かを予感するかのような気持ちになったのか。妙子さんは理由を聞かなかったが、結局、きょうだい5人の写真はそれが最後になってしまった。

長男義彦さんの入営前に撮ったきょうだい5人の写真(左から妙子さん、志津枝さん、義彦さん、潤治さん、昭夫さん)

兄2人が相次いで戦死

 日本統治下の朝鮮半島、忠清南道洪城郡で呉服店を営んでいた大津寛正さんと妻のトシさんは、日米開戦から丸2年が経過した1944年(昭和19)2月に次男の潤治さん、9月には長男義彦さんが戦死した。5人の子どものうち、息子は17歳の三男昭夫さんだけとなったが、昭夫さんは死んだ兄2人と同様、「俺が行かなければ日本は負ける」といきり立ち、徴兵を待たずに自ら陸軍を志願して入隊。希望通り、潤治さんと同じ野砲隊に配属され、45年(昭和20)になって朝鮮半島南東の済州島へと送られた。

 米軍はこのころ、日本の物資輸送拠点だった朝鮮半島の周辺海域を封鎖するため、潜水艦が日本の輸送船等の船舶を攻撃、済州島には激しい空爆を加えていた。部隊司令部の本部付き兵員として、常に上官の班長のそばについていた昭夫さんはある日、突如、上空に現れた艦載機の攻撃を受けた。昭夫さんは物陰に隠れ、班長はそばに積んであった馬草にもぐり込んだが、米軍機はその瞬間が見えていたかのように、馬草を狙って機銃を浴びせた。

 敵機が飛び去ったあと、馬草の中から「大津、大津…」と力ない声が聞こえた。昭夫さんは血だらけの班長を引き出したが、班長は応急処置をする間もなく息絶えた。日本軍はこのとき、兵士の遺体を荼毘に付す油にも事欠く状態で、戦死者が出た場合は仲間の兵士が遺体の一部を切断し、火葬することになっていた。班長を取り囲む仲間たちは全員が昭夫さんを見た。上官は「大津、お前が切れ」と命じた。昭夫さんは黙ってナイフを手にとり、泣きそうになりながら班長の腕を切断した。その後、しばらくして戦争が終わり、昭夫さんは伍長(下士官の最下級)となって洪城へ復員した。

 戦争末期、洪城の寛正さんとトシさんはまだ幼い2人の娘を育てるため、息子2人が戦死した悲しみを忘れるかのように呉服店の仕事に打ち込み、一日一日を懸命に生き抜いた。寛正さんは本業のかたわら、市議会議員や自治会長、保護司、戦時中は警防団長などいくつもの役職を務め、日本人だけでなく朝鮮の人たちからも一目置かれる存在だった。

 1943年(昭和18)春、小学校を卒業した長女妙子さんは忠清南道の公州にあった公州高等女学校に入学し、親元を離れての寮生活がスタートした。初めて地元朝鮮の子と一緒になった女学校は、1年の終わりまではまだなんとかなんとか学校らしさを保っていたが、2年生になってからは授業がなくなり、毎日、農家の手伝いばかりやらされた。九州を中心に日本の各地から移り住んできた生徒が多かったが、日本人の子も朝鮮の子もみんな平等で、戦後の日本よりずっと自由で民主的だったという。

 1945年(昭和20)の夏休み、汽車とバスを乗り継いで実家へ帰った妙子さんは、家族のほかに同居している知らない大人の男性(日本人)を見てびっくりした。その人は和歌山県日高郡野口村(現御坊市)出身の学校の先生で、4月に洪城の日本人学校へ転勤となったが、賄い付きの下宿が見つからず、校長から相談された寛正さんが「うちは息子2人が戦死して部屋が余ってます。よかったらうちへどうぞ」と受け入れた人だった。

 8月15日、日本が敗れて戦争が終わったその日を境に、妙子さんら内地から移り住んでいた日本人の生活は一変した。昨日までともに働き、一緒に遊んでいた朝鮮の人たちが露骨に接触を避けるようになり、道で会ってもあいさつどころか、目も合わせてもらえなくなった。それまでまったく気づかなった、朝鮮の人たちの本質が見えた気がした。