家の真上で空中戦

 大東亜戦争末期の1945年(昭和20)5月以降、日高地方にも米軍の爆撃機や戦闘機が飛来するようになり、軍関連施設などが攻撃され、多くの民間人も犠牲となった。狙われたのは御坊市や美浜町の軍需工場、由良湾に停泊していた戦艦など。日高川町旧中津・美山地区の山間部は毎日のようにB29の編隊がはるか上空を通過していたが、爆弾を落とされることはほとんどなく、村人は配給の食料・物資の困窮に苦しみながらも、爆撃の恐怖という点では比較的、緊張感の緩い日々を過ごしていた。

 当時、現在の椿山ダム湖沿いの国道424号から猪谷川沿いに北へ5㌔以上入った川上村(現日高川町)上初湯川妹尾(いもお)集落の北には広大な国有林が広がり、1920年代後半から47年ごろまでは、村の林業を支える一大拠点として活況を呈した。

 美山村史などによると、国有林は1924年(大正14)の春から木材搬出用の軌道整備が進められ、27年(昭和2)の中ごろには国有林と串本地区を結ぶ延長約10㌔の軌道が開通。最も生産量が上がった35年(昭和10)以降は、火力製材のボイラーの煙突がそびえ、植林、伐採・搬出、軌道の保線などの作業員のほか、筏組み立てに使う「ねじ木」を作る人、炭を焼く人らも含め、ざっと200人もの人が働いていた。

妹尾の国有林と串本を往復していた木材輸送の森林鉄道

 国有林では地元の妹尾、猪谷、串本のほか、寒川、笠松、川又などの人たちが働いていたが、妹尾は稲作の農家が多く、国有林の仕事をする人は少なかった。日高川町上初湯川の無職中島知久平(ちくへい)さんの父岩男さん(故人)は戦時中、初湯川沿いにある現在の知久平さんの家から南西方向へ直線距離で約2・8㌔、山の反対側の猪谷川沿いの妹尾に住み、米を作りながら国有林の仕事もしていた。

 45年の初夏のある日、岩男さん(当時35歳)の妻ゆきさん(当時25歳)が家で昼食のおかいさん(茶がゆ)を炊くため、四角い木の三合升(米の計量カップ)を手にとったとき、家が揺れるほどの爆音が耳をつんざいた。驚いて外へ飛び出したゆきさんと岩男さんが空を見上げると、巨大な米軍の爆撃機B29と小さな日本の戦闘機がドッグファイト(空中戦)を繰り広げていた。

母が三合升手に大興奮

 1912年(明治45)生まれの中島岩男さんは軍隊の経験こそなかったが、戦後、5人目の子ども(次男)が生まれたとき、東洋最大の軍用機メーカー、中島飛行機の創業者(中島知久平)から名前をいただいたことからもうかがえるように、戦闘機や戦艦については詳しかった。頭上で激しく撃ち合う2機は、サイズ的にはタカとツバメぐらいで、すばしっこく飛び回る日本の戦闘機は陸軍の一式戦闘機「隼」のように見えた。

 日本軍機は旋回しながら、「カカカカカ…」とニワトリの鳴き声のような音の機銃を撃ち込んだかと思うと、空からバラバラバラッと何かが降ってきた。足元に散らばるそれは、戦闘機とB29が撃ち合った機銃の薬きょうだった。

 「危ない。屋根裏へ入れ!」。岩男さんはゆきさんと、心配そうに玄関に立っていた長女の美智子さん(当時6歳)に叫び、自分も一緒に屋根裏部屋へ避難した。2機の戦いはそこからも見ることができた。

 美智子さんは怖さに震えながら岩男さんにしがみついていたが、ゆきさんはずっと手に持ったままの三合升の底を手でたたきながら、「頑張れ、頑張れ!」と懸命に日本の戦闘機を応援。するとその声が力になったか、敵のB29は右側の尾翼から炎を噴き出し、それを見た岩男さんは「よし、やった!」と力強く右のこぶしを突き上げた。B29はなおも日本の戦闘機に追われながら、向かいの山の向こうへ消えていった。岩男さんは「あれだけ(機体が)燃えてたら、海へ出る前に爆発して落ちるやろな」とつぶやいた。

 戦争末期の1945年(昭和20)、日高地方では5月5日に上山路村(現田辺市龍神村)殿原、6月26日に寒川村(現日高川町)串本にB29が墜落した。自宅の真上で炎上したB29ははたしてどちらの機体なのか。岩男さんと同様、B29と日本の戦闘機の空中戦を目撃した殿原の古久保健さん(85)は、「B29は日本海軍の紫電改に追われながら、北から南に向かって飛んできた」「B29は旋回する紫電改の攻撃を受け、右主翼の付け根付近から煙が出ていた」と記憶する。

 戦後に公表された各種資料からも、殿原に堕ちた機体は紫電改の攻撃を受けたことは間違いなく、岩男さんのいう戦闘機の「隼」とB29の機体の出火部分(右の尾翼付近)は異なるものの、古久保さんのいう北から南へ飛んできたという点(殿原の墜落地点は妹尾の南西約15㌔)や戦闘のあった時間帯、戦闘機が旋回しながら攻撃中に出火したという点は2人の記憶が合っており、岩男さんとゆきさんが見たB29は殿原に堕ちた機体だったと思われる。

 岩男さんは1980年(昭和55)、知久平さんが32歳のときに69歳で亡くなったが、知久平さんは幼いころから何度もこの話を聞かされて育った。また、いつも必ず9つ上の姉美智子さんが「お母さんはずっと三合升をたたきながら、頑張れ~頑張れ~と大声援を送っていた」と笑って振り返った。戦後生まれの知久平さんには何の実感もない話だが、話をするときの両親と姉の楽しそうな顔は、8人きょうだいもすぐ下の妹美佐代さん(72)と2人だけになったいま、以前よりも鮮やかによみがえる。

 一家3人、恐怖と歓喜に包まれた空中戦から52日後、岩男さんは生涯忘れえぬさらに強烈な“戦争”を体験することになる。