1953年(昭和28)の7・18水害からちょうど70年の今年は、九州、近畿、関東、東北と全国各地で被害があり、紀北、紀中で線状降水帯が発生した先月2日の大雨は、2011年の台風12号豪雨を思い出した。
夕方、自宅の様子を見に戻った際、周囲の状況を確認しているうち、気がつけば自宅につながる道はすべて冠水。家はかろうじて浸水を逃れたが、あらためて「自分は大丈夫」の正常性バイアスの危なさに思いが至った。
記者は取材で写真を撮るとき、少しでもかわいく、かっこよく、記事に合った読者の目を引く写真を撮ろうと考える。火災や事故の現場も同様、野次馬をかき分け、警察の規制線ぎりぎりまで近づこうとする。
一方、自然災害の現場では、このメディアの使命感こそが命とりとなりかねない。先月2日の豪雨でもそうだったが、ほんの数㍍の差でフレームに入る絵が大きく違うことになり、何かに引き寄せられるようにふらふら近づいてしまう。
報道写真は何が主役なのか、何を大きく見せるべきなのか。読者にできるだけニュースが伝わるよう、目線の高さ、ピント、主人公の表情、動きなど、記者に対して日ごろ口うるさく注文をつけているが、自然災害については例外とせねばならない。
東日本大震災の津波だけでなく、より身近な大雨でも、流されて亡くなった人の中には、「ちょっと見てくる」といって田んぼや川に近づいた人も少なくない。自治会の役員、消防団員、警察官など、ある種の使命を帯びた人ほど責任感から行動を起こす。
しかしそれは、命を落としかねないリスクを冒すほど重要なことなのか。自然災害は予想がつかない。1人の人間として、肝に銘じておきたい。(静)