子どものころは畑仕事ばかり

丹生村の丹生神社で行われた出征兵の壮行式 (昭和17年ごろ)
 写真集 「目で見る御坊・日高の100年」 より

 勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)を出たからは 手柄立てずに死なりょうか――。1937年(昭和12)7月の盧溝橋事件をきっかけに日本と中華民国が戦争状態(支那事変)に入った当時、大手新聞社は国民の戦意高揚、愛国心の発揚を目的として、競うように軍歌を作った。この有名な「露営の歌」も国民から募集した歌詞を基に作られ、兵士の雄々しさと望郷の念が入りまじり、どこか憂いを帯びたメロディーが日本人の心をとらえ、レコードは発売数カ月で56万枚の大ヒットとなった。

 日高川町山野(三津ノ川)の笹貞義さんはそのころ、小学校に入ったばかりだったが、この歌は先生から教わり、教室で毎日のように友達とうたった。その後も日本が戦争の道を突き進むなか、「同期の桜」「父よあなたは強かった」など同種の軍歌、戦時歌謡が次々と作られ、貞義さんはいまも昭和の戦争といえば、この「露営の歌」とともに、家の畑仕事と勤労奉仕に明け暮れた少年時代を思い出す。

 農業と大工をなりわいとしていた父茂平(もへい)さん、母サキエさんには三男五女の8人の子どもがいて、次男の貞義さんは5人目。4人目は3歳上の兄隆治さんだったが、両親の教育方針で隆治さんは農学校へ進学し、毎日の農作業は貞義さんが幼いうちから手伝った。

 山野尋常小学校は1・2年、3・4年、5・6年の複式学級で、担任は10歳上の姉と同級生だった女性の森先生。41年(昭和16)12月、5年生で米国との戦争が始まると、学校は山野国民学校初等科と名前が変わった。当時はまだ若い男の先生も多かったが、戦争が長引くにつれ、だんだん減っていった。

 天気のいい日は勤労奉仕として、子どもたちはみんなで地域の農家の仕事を手伝った。山でミカンの収穫、田んぼでは稲刈り。学校のグラウンドや近くの空き地(現在の山野団地周辺)は掘り起こして畑にして、夏はサツマイモ、冬は麦を作った。「いまみたいに消毒の薬剤もないから、サシムシとかの害虫は手でとった」。雨の日は農作業がなかったが、貞義さんにはそれよりもずっといやなことがあった。

 直径2㍍ほどの水車のような木製の車輪に、大の字になって手足をくくられ、学校の廊下をゴロンゴロンと転がされた。将来、立派な飛行機乗りや水兵になれるよう、三半規管を鍛えるための学校独自の訓練だったと思われるが、貞義さんはいつも目が回って気分が悪くなり、これがどんな重労働よりつらかった。小学校のころは勤労奉仕と兵隊になる訓練ばかりで、教室で勉強をした記憶はほとんどない。おかげで足腰が鍛えられ、「大人になって力仕事をしても、痛みが出たことはまったくなかった」という。

 当時の丹生村でも、赤紙(召集令状)を受けた青年が出征する際には、地域の子どもや女性が日の丸を手に見送り、戦死者が出たときは戻ってくる遺骨を迎えに行った。「みんなで山野から江川へ抜けるかんの峠(観音峠)まで、和佐駅へ行く兵隊さんを見送りに行ったけど、遺骨になって帰ってくる人も含めて、だんだんその数が多なってきてな…」。2年間の国民学校高等科を卒業するころ、貞義さんも先生から「軍に志願する気はないか」としつこく尋ねられた。

 44年(昭和19)3月、13歳で学校を卒業すると、10人家族の柱として農作業を任されるようになった。45年になると、周囲を山に囲まれた三津ノ川の小さな空にも、米軍の爆撃機(B29)を見ることがあり、御坊や美浜では艦載機も飛んできて軍需工場などが攻撃を受けた。そのころ、貞義さんの戦争時代の唯一の明るい思い出となる出来事があった。御坊から、当時6歳の二階俊博元自民党幹事長の家族4人が家に疎開してきた。

終戦教えてくれたトシ坊

色褪せた若いころの写真を見ながら、懐かしく笑顔がこぼれる貞義さん

 戦争末期の45年(昭和20)7月ごろ、丹生村山野(三津ノ川)の笹茂平さん宅に、元自民党幹事長の二階俊博さん(83)の家族が疎開してきた。やってきたのは二階さんと、二階さんの母、姉、弟の4人。当時、茂平さんは丹生村の村会議員を務め、県会議員だった二階さんの父俊太郎さんと仲がよく、その関係から受け入れることになった。

 当時6歳の二階さんは毎日、山や川を走り回る元気な男の子。笹家や近所の人たちからは「トシ坊」と呼ばれ、かわいがられた。朝昼晩の食事は貞義さんの母サキエさんが作り、それを二階さんの母菊枝さんが手伝い、双方の家族合わせて14人が食卓を囲んだ。貞義さんは「毎日、みんなで同じ釜のおかいさん(いも茶粥)をすすってな。家は狭かったけど、明るかった」と振り返る。家には近くで湧く冷泉を引き込んであり、毎晩の風呂はそれを沸かして入っていたが、二階さん家族は「肌がツルツルになるし、気持ちいい」と喜んでいたという。

 8月15日の昼、盆で畑仕事のない貞義さんが家にいると、外で遊んでいたトシ坊が勢いよく駆け込んできた。「おいおいおいおい! 戦争中止になった。戦争が中止になったぞ」。息せき切って怒鳴るように告げるトシ坊に、貞義さんは意味がよくわからなかったが、玉音放送のラジオを聞いた近所の人に教えてもらったのか、3年8カ月に及ぶ米国との戦争が終わったことを教えてくれた。二階家と笹家の交流はわずか1カ月ほどだったが、その後の二階さんの中央政界での活躍は、貞義さんはいつも自分の家族のことのようにうれしかった。

 終戦間際、お宮の前を通りがかると、戦争へ行っていない高齢の男性や女性が集まっていた。見ると、境内にわらで作った人形が立てられ、それを竹やりで突く練習をしていた。いずれ上陸してくる敵の兵隊をやっつける訓練らしく、貞義さんはこれを見たとき、決して口にはできない思いが確信に変わった。

 戦後は御坊の製材工場に就職し、家の農業を手伝いながら、東京オリンピックが開かれた64年(昭和39)に34歳で8歳下の静子さんと結婚。大工の父に三津ノ川へ家を建ててもらった際、父の見よう見まねで塗った壁が素人とは思えぬ仕上がりで、それを見た左官職人の妹の夫にスカウトされ、34歳で左官職人となった。初めての仕事は、同じ山野の森茂元川辺町教育長の家の風呂場とトイレの壁塗り。くしくも、父が大工になって初めて建てたのがその森さんの家だった。左官の仕事は67歳まで続け、御坊に住む長女の自宅を最後に引退した。

 戦争の時代に生まれ、子どものころから好きなこと、やりたいことは何もできず、ひたすら家族のため、真面目に、正直に、慎ましく生きてきた。学校で勉強ができなかったせいで、大人になって恥ずかしい思いをしたこともあるが、小学生の孫とテレビのクイズ番組を見ていたときはびっくりした。「百足」の読み方は? という問題が分からず、孫に聞くと「ムカデやで」と教えてくれた。「まだ小学生やのに、こんな字ぃ読めるんかって感心したよ」と笑う。

 お酒が好きで、数年前まで晩酌を欠かさなかったが、最近はほとんど飲まなくなり、かわりに以前は見向きもしなかったお菓子が好きになった。車の免許もついに自主返納し、寄る年波には勝てないが、いまも毎日、近くの畑へ出かけている。季節の野菜や果物を作っては、子どもたち、孫たちに食べてもらうのが幸せ。あの戦争を生き抜いた昭和ひとけたは、いまの平和に感謝せずにいられない。