1986年のチェルノブイリ原発事故。原子炉が暴走して炉心溶融に陥り、爆発で大量の放射性物質が飛び散った。当時は高校生だったが、空を見上げて背筋が寒くなったのを覚えている。

 放射性物質の多くは、風に乗ってウクライナの北のベラルーシ地方に降り注いだ。外で遊んでいた子どもら罪もない多くの人々が被ばくし、数年後、甲状腺がんの子どもが急増した。

 甲状腺外科の権威だった菅谷(すげのや)昭氏は矢も楯もたまらず、勤めていた大学病院を辞め、単身、ベラルーシへ飛んだ。がんの患者は予想以上に多く、オブザーバーとして参加した手術は恐ろしく時代遅れだった。

 許可を得て初めて執刀した際、現地の医師はその神業のような手技と小さな傷跡を見て驚いた。それまで手にしたこともなかった最新の甲状腺がん手術の論文を見ると、目の前の日本人医師の名前が載っていた。

 菅谷氏は患者が退院後も家を訪ねて無償で診察。再発を心配し、妊娠、出産をためらう女性には「大丈夫だよ」と寄り添った。その姿に、現地の若い医師たちは「パンのみにて生きるにあらず」の非合理な生きざまを見た。

 放射能で汚染された地域にまかれた種が芽を出し、ようやく標準的な医療が根づいたいま、ウクライナの原発が再び深刻な危機にさらされている。まだ廃炉作業が継続中のチェルノブイリは軍に占拠され、隣国からの電力供給が止まった。

 ロシア国営放送のテレビ局で働く女性がプロパガンダに反旗を翻し、欧州の人々は悪夢のような現実が身につまされ、電気料金や物価の高騰も「ウクライナの人たちの苦しみに比べれば」と気にしない。その凛とした笑顔に、無私の日本人医師が重なる。

(静)