「日本人のリズム感は拍ではなく、静止する間(ま)で育っている」と何かで読んだことがある。御坊市民文化会館で上演された「一陽来復祈願能」を取材し、「道成寺」「翁」を鑑賞してその言葉を思い出した◆「道成寺」は、当地方の宝である名刹道成寺の二代目釣鐘を題材としている。道成寺ではちょうど、二代目釣鐘が16年ぶりに京都の妙満寺から里帰り中。タイムリーな上演であった。もっとも実際の釣鐘は、つくらせた逸見万寿丸が「二度と人が入ることのないように」と意図したそうで小振りなものになっているのだが◆歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」は、白拍子が踊りながら次々と衣装を替えていくなど視覚的な華やかさがある。能の「道成寺」は、鐘に執着する白拍子の心情を舞で表現することがより重要になっているようだ。「乱拍子」という独特の足さばきで鐘に近づき、長い間(ま)をとりながら次第に少しずつ向きを変え、ついには鐘の中へ身を隠す。望遠レンズ越しに舞台上の光景を凝視しながら息づまる迫力を感じ、冒頭の言葉を思い出していた。間(ま)の中で演者の呼吸と鼓動を感じるのが、日本人が培った独自のリズム感かも知れない◆「翁」も印象深かった。祝言曲だが、儀式のような緊迫感がある。畳みかけるような笛と小鼓の囃子、会場に響きわたる掛け声、軽々と跳躍する演者。舞台の上に不思議な空間が出現していた。シテ(主役)は面を着けることで神となると解説した文を読んだが、そのような厳粛さを感じた◆歌舞伎はエンターテイメント、能は伝統芸能と自分の中で位置づけ、歌舞伎により大きな関心を持っていたが、今回は伝統の芸が現代に息づく迫力を目の当たりにし、圧倒された。機会を見つけさらに触れてみたいと思っている。 (里)