写真=当時の学校日誌や作製した冊子を手に上村さん

 みなべ町文化財審議会の上村浩平委員長(64)が、清川小学校で保管されていた1932年(昭和7)から41年(同16)の学校日誌をもとに、冊子「学校日誌が語る昭和初期 日本は そして郷土は」を発行した。合計1375日に及ぶ学校や村の姿が書き留められており、人々の息づかいを感じることができる一方、日中戦争(同12年)へと突き進んでいった時。国家総動員の時代を迎え、非日常が日常へと変貌していく姿が見て取れる貴重な資料となっている。

 元教諭の上村さんは約30年前、清川小学校に赴任していた際、金庫の中に32年から36年の2学期分、37年から41年の1学期分の学校日誌が保管されているのを知り、貴重な資料をいつか多くの人に知ってほしいとの思いを持ち続けていた。定年退職後、2つの資料を文字起こしし、その年ごとの主な出来事を「その時」として付け加え、4年半かけて冊子を完成。30年の思いをA4版244㌻という形にした。

 学校日誌は「天候」「朝会記事」「重要記事」などの記入項目があり、記入者である職員の押印がある。34年(昭和9)10月14日には「校長先生児童五、六名を伴って虎が峰へ。まつたけを取った。腹いっぱい食べて下山」とあり、この時代には春には桜の花をめで、秋には稲や柿の実り具合に一喜一憂する姿の記載がいっぱい。教師と子ども、村の風景が目に浮かぶ内容が記されている。

 一方で満州事変(昭和6年)から日中戦争(同12年)へと突き進んでいった時代、年を追うごとに日誌の記述も変わっていく。日中戦争後には応召兵の送別式を校庭で行った記載が増えていく。同年7月17日には送別式の式次第なども書かれており、児童や地域住民が大勢集まった中、最後はバンザイで送り出す様子が詳細に書かれている。戦死した兵士の村葬も校庭で行われたことの記載が増えていく。

 上村さんは「日誌から、その後のより大きな太平洋戦争につながっていったことがよく分かる。この1375日のどこかで立ち止まっていれば、その後の大きな犠牲もなかったと思う人も多いと思う。過去は変えられないが、戦争体験者が少なくなる中、事実を知り、今を見て、未来をつくる参考にしてもらえるとうれしい」と思いを込める。

 町の事業として200部作製。町内小中学校に配布するほか、図書館、公民館で閲覧できる。「清川だけでなく、広く戦争犠牲者に思いをはせながら見てほしい。社会教育や学校教育に役立ててもらいたい」と話している。