写真=広島県江田島の海軍兵学校へ入校した俊一さん
スマートな海軍に憧れて
日高地方の基幹病院である北出病院をはじめ、健診センター、医療とフィットネスを組み合わせた健康増進施設、訪問看護ステーション、介護老人保健施設などを管理・運営する社会医療法人黎明会の名誉理事長北出俊一(としかず)さんは、1928年(昭和3)2月2日、日高郡比井崎村比井(現日高町比井)に生まれた。父留吉さんと母みつえさんは旅館「錦山」を営み、小魚の加工・販売などを生業とし、長男の俊一さんら5人の子ども(二男三女)を育てた。
俊一さんが生まれた翌年、国鉄の紀伊由良駅―御坊駅間が開業したが、昭和のはじめはまだ交通手段といえば船が主流。江戸時代から比井は日高(御坊市)、富田(白浜町)と並ぶ紀州廻船の主要港で、俊一さんの子どものころは旅館も多く、実家の「錦山」という名前は田舎相撲の力士だった先代(俊一さんの祖父)の四股名と同じだった。
中国との戦争が長引き、きなくさい時代の空気が漂うなか、地元の小学校を卒業した俊一さんは日中(旧制日高中学校=現日高高校)に入学したが、在学中に日米が開戦。緒戦の快進撃と国民の熱狂も長くは続かず、やがて生活物資や食糧は軍需優先。日本人は学生であっても女性であっても、国の勝利のために尽くすことが当たり前の世の中となっていった。
俊一さんは日中に入学すると剣道部に入ってキャプテンを務め、重さ約4㌔の三八銃(三八式歩兵銃)を担いで校外を走るときは、いつも先頭で後輩たちを引っ張った。「小さいころから運動が好きだったし、日中時代は毎日、比井の家から学校まで自転車で通ってました。小坂峠は自転車を押して歩きましたけど、そうやって足腰が自然に鍛えられたんでしょう」。90歳を過ぎたいまも健康そのもの、元気に近くを散歩している。
当時、旧制中学校は12歳から5年課程だったが、俊一さんは5年生になった44年(昭和19)の夏、卒業を前に16歳で広島県江田島の海軍兵学校に入校した。「当時はもう完全な軍国主義の世の中でしたからね。私が軍人になると言い出しても、親はもちろん、誰も反対しませんでした」。海の近くで育ったこともあり、飛行機よりも船に乗りたいという気持ちが強く、何よりもイギリスナイズされた海軍のセーラー服に憧れた。「私が海軍を選んだ理由は、陸軍より見た目がスマートだったから。腰に短剣をぶら下げた士官がかっこよくてね」。男は軍人、女は従軍看護師になりたいという子が多かった当時、若者にとって、将来の人間としての目標に多様性はなかった。
江田島の海軍兵学校は英国のダートマス、米国のアナポリスと並んで、世界三大兵学校と称され、俊一さんは憧れの士官になるべく、学科を中心とした教育訓練に明け暮れていたが、入校から約1年後の45年(昭和20)8月15日、校庭に学生全員が集められ、戦争が終わったことを知らされた。
兵士として戦場に出ることなく終戦を迎えた俊一さんは、比井の実家に戻ったあと、医師になることを志し、天王寺にあった大高(旧制大阪高等学校=現大阪大学)に編入。このときの3年間の寮生活は「人生の勉強はすべてここで学び、人間ができた」というほど思い出深く、のちに自身が創設した医療法人の名称は、学校周辺にいくつか点在した寮の代表寮歌「嗚呼黎明は近づけり」からつけられた。
大高から岡山大医学部を卒業し、広島県福山市の国立病院に外科医として勤務。そこで7つ下の妻玲子さんと出会い、31歳のときに結婚した。
混乱のなか運命の糸に導かれ
写真=終戦から76年目の夏を迎え、あの戦争の日々を振り返る俊一さんと玲子さん
俊一さんの妻玲子さんは1935年(昭和10)、外科医の父の勤務先の病院があった朝鮮半島の釜山(現大韓民国釜山広域市)で生まれた。当時の朝鮮は日韓併合条約に基づき、日本の統治下にあり、長崎市出身の父は長崎医大を卒業し、総督府直営の釜山鐡道病院で働いていた。
釜山の港には毎日、日本からの連絡船が多く着き、戦時中は半島から大陸の戦場へ送られる兵士たちの姿もみられた。街の旅館はどこも軍専用の宿となり、階級の低い兵士たちは小学校や幼稚園の講堂に宿泊。個人の家も幹部の宿泊施設として割り当てられ、玲子さんの家にも兵士が泊まりに来た。「私の家に来た兵隊さんは大人しく、いい人ばかりで、私の記憶もいい思い出ばかりですが、向かいの家に来た兵隊さんは自暴自棄になったんでしょうね。お酒を飲んで暴れて、憲兵隊が来る騒ぎになったことがありました。まだ小さかった私には、いま思い出しても怖くて、涙が出るぐらい悲しい出来事でした」と振り返る。
45年(昭和20)8月9日、米軍は長崎に原爆を投下。爆心地のすぐそばに父の家があった玲子さんら家族は、釜山にいて命を拾った。その6日後に終戦となり、玲子さんらは憲兵隊の親類から「(朝鮮半島に)米軍が上陸すれば帰国が難しくなる。とにかく一日も早く日本へ戻れ」と促され、とるものもとりあえず、荷物をまとめて連絡船で日本へ帰った。玲子さんらが乗っていた船は博多に到着し、入れ替わりで米軍が乗り込み、朝鮮半島へ向かった。
玲子さんは終戦から約2週間後の8月末、家族で長崎の父の故郷を訪れた。家があった城山町など市内は完全な焼け野原。先祖が眠る山の上の墓地も、すべての墓石が同じ方向に倒れていた。「街は跡形もなく建物が吹き飛ばされて、その中にぽつん、ぽつんと公衆トイレの小屋だけが建っていました。一発の爆弾で罪のない多くの人の命を奪ったことが卑怯だと感じ、アメリカという国が大嫌いになりました」。その後、全国各地に進駐軍(GHQ)が駐屯、米兵が子どもにチョコレートやガムを配る光景がみられたが、玲子さんは「私はとてもそんなものをもらう気にはなれませんでした」という。
玲子さん一家は長崎で生活できず、知り合いの世話で佐賀県藤津郡古枝村(現鹿島市)へ移住。日本三大稲荷の一つとして有名な祐徳(ゆうとく)稲荷神社の近くに家を借り、父が診療所を開業した。約2年後、今度は父の転勤で広島県尾道市へ引っ越し、のちに夫となる俊一さんは岡山大医学部を出て尾道の隣の福山市の国立病院に勤務。ともに戦争の混乱のなか、運命に導かれるように、少しずつ距離が近くなった。
2人は広島で見合いをして結婚。娘2人が生まれたあと和歌山へ移り、1962年(昭和37)、俊一さんは御坊市に北出外科病院(現北出病院)を開業。御坊で生まれた長男貴嗣(たかし)さんも医師となり、俊一さんは3年前の90歳まで、貴嗣さんとともに患者の診療にあたっていた。
江田島の海軍兵学校で終戦を迎え、和歌山へ戻る途中、広島の街を見て衝撃を受けた俊一さん。玲子さんは釜山で終戦となり、父のふるさと長崎でその惨状に愕然とした。戦後は御坊で支え合って家庭と病院を守り、地域の医療、福祉の向上に貢献してきた。
終戦から76年が過ぎたいま、日本は韓国との関係がうまくいかない。戦争当時、日本統治下の朝鮮では、日本人が現地の人を差別する風潮があった。玲子さんの父はそれを嫌い、「人間、盲腸切ったらみんな同じや」と、お手伝いさんたちにも日本人と同じように接していた。戦争が日本の敗戦で終わり、駅や港は我先に逃げ帰る日本人で大混乱となったなか、玲子さんらに寄り添って守ってくれたのは、日本人ではなく朝鮮の人たちだった。(おわり)
この連載は森将也、上西幹雄、柏木智次、小松陽子、山城一聖、片山善男、田端みのり、玉井圭が担当しました。