写真=海軍の軍服に身を包んだ若き日の吉野さん

潜水艦搭乗で胸を病み夭折

今年の連載第1回(8月5日付)で登場した田嶋弘章さん(82)=日高町出身、和歌山市在住=の手元には、海軍中佐だった母方の伯父、吉野伊太郎さんの遺品が遺されている。一冊の分厚いノートで、表紙には「修養記録」の活字。手書きで、「第四十四期生徒 吉野伊太郎」の文字がある。日本海軍の機関科に属する士官を養成するため、1881年(明治14)に設立された海軍機関学校時代のノートだ。アルバムには写真もあり、海軍の軍服に身を包んだ優しそうな若者の姿が写っている。

吉野さんは1913年(大正2)7月7日、農業を営んでいた吉野久吉さん、カズヱさんの長男として日高郡東内原村萩原(現日高町萩原)に生まれた。学業優秀で、旧制日高中学校(日中=現日高高校)に首席で入学。卒業までずっと首席を通し、体も頑健だったという。

日中卒業後の32年(昭和7)、18歳のとき、舞鶴市にあった海軍機関学校に第44期生として入学。記録では、36年3月23日に機関少尉候補生、38年11月15日に機関中尉となり、その後、少佐として呉鎮守府に配属、のちに中佐となった。潜水艦への搭乗を任務としていた。

吉野さんが復員したのは終戦から数年後。過酷な潜水艦搭乗のためか、頑健だった体には不調を来たし、胸を悪くしていた。

小学6年生だった田嶋さんは、原谷の家から萩原まで歩いて、寝ている吉野さんの見舞いに行ったことを鮮明に覚えている。真面目で優しい伯父のためにキリギリスを捕まえ、虫かごに入れて持って行った。「よう鳴くな」ととても喜んでくれた。その時、伯父は起き上がって布団の周囲を歩いてみせ、「弘章、こんなに歩けるようになったんや」と言った。田嶋さんは子ども心に「布団の周り歩いたぐらいで、なんでそんなにうれしいんやろ」と不思議に思ったが、「今にして思うと、少しでも体がよくなっているという希望を持ちたかったのでしょうね」。

家の田んぼの世話ができないことを嘆いていた吉野さんを、田嶋さんは「僕が大きくなったらやったるから大丈夫や、心配せんといて」と励ました。田嶋さん自身はそのことを覚えていなかったが、あとから祖母に「よっぽどうれしかったみたいで、本当に喜んでいた」と聞いた。吉野さんは毎晩のように田嶋さんが贈ったキリギリスの鳴き声に耳を傾け、秋になって虫が死んだ時には悲しんでいたという。

学業優秀だった吉野さんには「教員に」との話もあったが、やはり体調が優れず、歩いて通える地元萩原の企業、30年(昭和5)創業の小松化学香料合資会社(現小松屋株式会社和歌山工場)に勤め、クエン酸の製造に携わっていた。

しかし、その後も体が完全に回復することはなく、田嶋さんが中学1年生になった52年(昭和27)、まだ30代の若さで他界した。田嶋さんにとって従弟妹に当たる2人の子ども(1男1女)がいたが、まだ物心もつかないほど幼かった。

 

国と仲間への思い真摯に綴る

写真=海軍機関学校時代の「修養記録」

写真=丁寧な文字で講話の所感などが綴られている

海軍機関学校は旧海軍三校の一つ(他は海軍兵学校、海軍経理学校)。1874年(明治7)、横須賀に開設された海軍兵学寮分校が78年に海軍兵学校附属機関学校、81年に海軍機関学校となった。1925年(大正14)、京都府舞鶴に移転。機関術・整備技術を中心に、機械工学や科学技術、設計等メカニズムに関わるあらゆる事象の研究、教育を推進していた。修学期間は4年間。

吉野さんは32年(昭和7)、18歳でここに入学した。当時、日本は満州国を建国したことから世界で孤立を深め、国際連盟を脱退。日中戦争へ向け、次第に国家間の緊張が増していった時代だった。

「修養記録」は、「自己の感じたる格言、自己の反省せる事項及び講演の所感等を記し修養に資するを目的とす」とされる。初めの数ページに教育勅語全文、明治天皇御製(天皇の詠んだ短歌)百首、艦船職員服務規程が印刷され、その次のページから各自の記述が始まる。

吉野さんの「修養記録」は、教官の講話への所感など、几帳面な文字でびっしりと埋められる。日露戦争を経験した軍人の講話を聴く機会が多く、吉野さんも特に日本海海戦で活躍した東郷平八郎元帥、秋山真之中将に心を寄せていることが、記述からうかがえる。秋山中将の「天剣漫録」を書き写したページでは、「成敗は天にありといえども、人事を尽くさずして天、天ということなかれ」との一文には特に感じ入ったように、文頭に丸印をつけている。また、東郷元帥が他界した34年(昭和9)5月30日の記述では、「沈黙の英雄東郷元帥、午前六時三十分、自邸において逝去さる。元帥の身は滅びたりといえども、その赫々(かくかく)たる偉勲は歴史と共に残り、その忠誠奉公はとこしえに感化を与えん。ことに我等は武臣の典型として、元帥にならい、元帥の精神を受け継がん」と、粛然たる言葉で追悼の意を述べる。

最上級生となった35年(昭和10)の4月、吉野さんは第六分隊の生徒長を拝命。「生徒長としての覚悟と誘導方針」について、若者らしい意気盛んな言葉を使い、力ある文字で記している。

まず日本が国際連盟を脱退したことに触れ、「帝国海軍はこの世界の情勢にかんがみ、有意なる人材を要求するや切なるものあり。また国家国民が我等に期待する所極めて大なり。我等はこの期待をかけられたる海軍生徒なり。しかも将来は機関将校となるなり。我等はまずその本分を自覚せざるべからず」

「元気にして朗らかなれ。我等は青年なり。特に将来は多くの部下を率いて戦場に臨まんとする者なり。一見するも活気旺盛、『打てば鳴る』の元気と気魄を持ちて、そして丸く小さく固まることなく、伸び伸びしたる朗らかなる気持ちを持ちて進め」

「朗らかとは、決してだらしなくなることにあらず。また、いつもにやにやすることにもあらず。たとえば分隊員一致団結して猛練習の結果、分隊対抗競技に優勝せる時の如き、自己の本分を十分尽くして後に来たるべき心境の如きなり。決して上下の礼儀を無視し笑い騒ぐことにあらず」

「しかし分隊総員、酒保食事の時までしかつめらしき顔をせよというにあらず。笑うべき時には笑え。泣くべき時には泣け。されど緊張すべき時には緊張せよ」

「いよいよ本日、一学年七名を迎え、我が分隊は二十一名総員そろえり。旧生徒は彼等を真に戦友として、先輩として、活模範を示し、無言の指導者となるべし」(いずれも原文は旧字体漢字と片仮名)
海軍軍人としての誇りと責任を胸に、祖国への愛に燃える若者だった吉野さん。遺された修養記録からは、国を思い、仲間を思う真摯な心が伝わってくる。

「潜水艦での過酷な任務がなければ、戦後も頑健な体と優秀な頭脳、誠実な心でふるさとに尽くしてくれたことと思います。戦闘で亡くなったわけではありませんが、やはり伯父は戦争の犠牲者でした。若すぎる死が本当に惜しまれます」。