今はほぼすたれてしまった文芸のジャンルに「連歌(れんが)」がある。五七五の句、七七の句を人が替わりながら順に詠み、つないでいく。室町時代に盛んだったが、後世に名を残した連歌師は宗祇ぐらい。子どもの頃に愛読した「まんが日本の歴史」で出てきたのでその名はよく覚えていた◆その宗祇と、当日高地方を中世に支配していた湯川家十代目当主政春との間に大きなつながりがあったことを、御坊文化財研究会の講演会で学んだ。宗祇は有田の出身で、有田川町天満の青蓮寺で出家。当時有田地方をも支配していた政春が彼の歌を知って「こんな所でとどまっている方ではない」と、中央とのパイプを使い宗祇を京の相国寺へ送ったという。そこから宗祇はめきめき才能を伸ばし、「あらぬ名をかるや山彦ほととぎす」の句で、土御門天皇から連歌師最高の称号「花の下(もと)」を贈られる◆湯川氏の居館「小松原館」近くには熊野古道が通っており、歌会を開く歌仙堂もあった。政春はそこへ宗祇を招いた。宗祇は感謝を込めて「かげすずしなほ木高かれ小松原」と、湯川家の繁栄を祈る句を贈っている◆講師の有田川町文化財保護審議委員会会長、川岸光司さんは、最後に「湯川政春が素晴らしかった点」を挙げた。宗祇に出自を問い、「実は(南朝に味方し、南朝消滅ののち没落した)湯浅家に仕えていた」と返答を受けると、「それは結構」と答えた。出自など問題にせず、ただ歌の素晴らしさを認めて世に出そうと力を尽くす。「この2人の心のやりとりが素晴らしい」と◆歴史を紡ぐのは血の通った人と人とのつながりであるとあらためて学び、日高地方に高い文化があったことも学べた。こういうところからも地域への誇りと愛着が生まれる。(里)