旧日高郡三尾村(現美浜町三尾)出身のカナダ移民で、伝説の日系人野球チーム「バンクーバー朝日」のメンバーとして活躍しながら、日中戦争(支那事変)で日本の兵士として戦死した野田為雄さんが、靖国神社に祭られ、同神社の図書館に資料が残されていることが分かった。野田さんと朝日軍で一緒にプレーした新宮出身の嶋正一さんの親類(東京在住)から、日高新報社に連絡があった。
 野田さんは三尾生まれで、小学校を卒業してからカナダへ渡り、バンクーバー朝日に入団。嶋さんらとともに活躍したが、日米開戦に伴いチームは消滅し、戦後58年目の2003年、カナダ政府が朝日軍の同国野球殿堂入りを決定した。
 2年後にはBC州のスポーツ殿堂入りも決まったが、記念メダルは元選手が他界、遺族とも連絡がつかないなどの事情から、未渡しとなっているケースが多かった。野田さんのメダルも長く未渡しの状態が続いていたが、嶋さんのおいで東京に住む嶋洋文さんの調査の結果、野田さんの親類がトロントにいることが分かり、昨年4月、代理人経由で野田さんのメダルが親類に届けられた。
 野田さんは日中開戦前に日本へ帰国し、出征して中国大陸で戦死したことは分かっていたが、今回、嶋さんに友人の松宮哲さんからメールが届き、野田さんが靖国に祭られ、軍人としての資料も保管されていることが伝えられた。松宮さんは今月7日、靖国神社を参拝し、隣接する図書館の靖国偕行文庫で野田さんの資料を見つけ、野田さんが神社に祭られていることも確認できたという。
 見つかった資料は、恩賜財団軍人援護会が編纂した「支那事変 忠勇列傳」。それによると、野田さんは1915年(大正4)4月に生まれ、旧制田辺中学校2年のときに家族とともにカナダへ移住。36年に帰国し、陸軍に入隊した。翌年、中国との戦争が始まると、勇猛で知られた通称「鯉登(こいと)部隊」(歩兵第77連隊)に編入され、歩兵砲中隊の射手として大陸の戦場を渡り歩き、38年4月16日、機関銃の弾を腹に受け、22歳で戦死した。
 資料には「氏が奮闘してたてた武功は皇軍戦史に輝き、不滅の英霊は護国の神と仰がれるであろう」などと記され、野田さんは戦死後、歩兵伍長となり、功六級金鵄勲章が贈られたとある。