詩人の大岡信(まこと)氏が今月5日、86歳で亡くなった。朝日新聞1面の短詩を鑑賞するコラム「折々のうた」で知られ、「1面を左下から読ませた男」と呼ばれた
 昭和54年のスタート時、筆者は中学生になり朝刊を部分的に読み出した頃。天声人語は読まずともこれは必ず読んでいた。昔に読んで印象に残った句は「朝日あびる中学校の砒素の瓶」(穴山太)。理科室の薬品棚のヒ素の瓶に射す朝日。朝の中学校という明るい所にひやりとする物が潜む。「うた」とは花鳥風月を愛でるばかりでなく凄い表現ができるものと思い、こんなどきりとする句を紹介してくれるのも凄いと思った
 「大岡信ことば館」のホームページに「折々のうた」115編が紹介されている。近世の歌謡「梅は匂ひよ木立はいらぬ 人はこころよ姿はいらぬ」、江戸期の俳人黒柳召波の「憂きことを海月(くらげ)に話す海鼠(なまこ)かな」など面白い句がある。高浜虚子の有名な句「去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの」は「快作にして怪作というべきか」と評し、大正期の俳人日野草城の「ところてん煙の如く沈みをり」では「物を見て間髪入れず気体を思う連想の精度が抜群なのである」と味わいどころを説く。そして有名すぎる芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」は「芭蕉秀吟中の秀吟」とし、「蝉が鳴きしきっていても、その声のかまびすしさが極まる所には常寂境そのものが出現するという宇宙観」と、ちょっと読んだだけではわからないその世界の高みを読者に示してくれる
 短い言葉は心をとらえる力を持つ。言葉を扱う仕事をする以上はその力を自在に操りたいものだが、なかなか思うにまかせない。氏の残してくれた仕事を、ただ無心に味わっている。    (里)