「母の実家で、中国で戦死した祖父の従軍日記が見つかったのですが、手書きの字が読みづらく、言葉の意味もよく分かりません。どうか調べていただけないでしょうか」。昨年11月、大阪市の女性からメールが届いた。
 とりあえず、「時間がかかってもよければ」と引き受けた。日記とは、旧陸軍の軍隊手帳のこと。後日、古くなってボロボロの手帳ではなく、全ページを1枚ずつ撮影した写真が送られてきた。
 駆け出しのころからお世話になっている歴史研究家の方に解読をお願いすると、嫌な顔もせず二つ返事で受けてくださった。年内には結果をまとめて返していただいていたが、ようやく先週、大阪へ行って報告することができた。
 女性の祖父は、昭和13年、支那事変が始まって1年もしないうち、山東省の馬頭鎮の南、北労溝(地名は原文ママ)で敵の銃弾に斃れた。享年30。山口県萩市の見島(みしま)という小さな島に妻と3人の娘を残しての無念の死だった。
 尊敬する上官が次々と戦死、交代し、補給もないなか、部隊の士気の衰えを感じながら、おかゆで飢えをしのぐ毎日。その嘆きが最後、次のページは戦友がペンをとり、遺族にあてて祖父の最期が綴られていた。
 死から75年を経て、80歳を過ぎた3人の娘と孫(依頼者)、ひ孫らに初めて、戦場のおじいちゃんの姿が伝わった。残念ながら、本紙記事にはなじまないが、祖国と家族のために戦死された、名もなき兵士の日記にご縁をいただき、大きな経験をさせていただいた。
 来月、満州開拓団として大陸に渡った人たちの家族が、父母らの足跡をたどって中国を訪ねる。戦争を強く生き抜いたファミリーヒストリーは、家族、友人、著名人ならずともすべての日本人の心を搏つ。  (静)