20130808戦争田口.jpg自宅で戦争当時の思い出を語る田口さん
 かつて、カナダへ多くの移民を送り出した美浜町の三尾地区。いまから125年前の明治21年(1888)、三尾村出身の工野儀兵衛がバンクーバー郊外の漁村スティーブストンに渡り、フレーザー川のサケの大群を見て、「フレーザー川にサケが湧く」と親類らを呼び寄せた。昭和15年ごろには、三尾出身のカナダ移民は2000人を超え、現地からの送金で豊かな村となった三尾はのちに「アメリカ村」と呼ばれた。いまも集落には洋風建築の住宅が残り、親類や友人同士、遠く太平洋を超えての交流が続いている。
 三尾で妻と2人暮らしの田口成次さん(92)は、大正13年(1924)4月11日、スティーブストンで生まれた。幕末生まれの祖父吉松(きちまつ)さんが20代の終わりにカナダへ渡り、その息子の父勝太郎さんは三尾出身のクニさんと結婚。他の移民と同じく、サケ漁で生計を立てていた。きょうだいは2つ上の兄吉代(よしお)、弟、妹の4人。当時、カナダの移民社会では、「子どもの教育は日本で」という考えを持つ親が多く、田口さんの一家も成次さんが7歳になった昭和5年に三尾へ移り、しばらくして、4人の子どもと妻を残して勝太郎さんだけがカナダへ戻った。
 田口さんは三尾村の尋常小学校を卒業後、昭和12年4月、和田村にあった郡内唯一の私立中等学校、常磐商業学校(戦後廃校)に入学した。2年がすぎ、「このままこの学校を卒業しても、大阪に出て丁稚になるしかないかな...」と将来に疑問を抱きはじめたある日、県立から国立(官立)に変わったばかりの三重の鳥羽商船学校(現国立鳥羽商船高等専門学校)が生徒を募集している新聞広告が目に止まり、商船学校を出て船乗りになることを決意。常磐商業を3年で辞め、15年4月、鳥羽商船学校に入学した。
 海軍省直轄の鳥羽商船学校の生徒は、入学と同時に海軍の予備兵として兵籍に入り、赤紙召集(徴兵)の対象外となった。「元々、陸軍の兵隊や軍刀をぶら下げてふんぞり返った憲兵が嫌いでね。商船学校に入った理由も、本音をいえば、徴兵で陸軍の新兵になって上官に殴られたくなかったというのもあったんですよ。もちろん口にはしませんでしたが」。カナダで生まれ、日米開戦後もカナダからの情報は耳に届いていた。「カナダにいる知人は、米はもちろん、鍋釜から着るものまで軍に供出しているような日本が、アメリカに勝てるわけがないと笑ってました。軍隊が嫌いだった私は周りの日本の同世代の男の人に比べて、感覚が違うことは自覚してましたね」と振り返る。
 学校は本来、5年課程だったが、大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦から戦局の悪化に伴い、工場と汽船の実習期間が短縮され、19年3月、4年間で卒業した。その後は民間の山下汽船(本社・神戸市)という海運会社に就職したが、国家総力戦の戦時下にあって、仕事で乗り込む船はすべて軍が軍事目的に徴用したいわゆる「御用船(ごようせん)」。田口さんも軍人ではないものの、軍属の三等機関士として、陸海軍の兵士や武器弾薬、軍需物資などを輸送する任務に当たった。
20130808戦争輸送艦.jpg南進する日本輸送船団(昭和18年8月、毎日新聞社)
 アメリカ軍は太平洋を行きかう日本の民間船への無差別攻撃を行っていたが、昭和18年前半までは魚雷などの武器不足から、日本商船の被害はそれほど多くはなかった。しかし、田口さんが陸軍の特殊船「高津丸(こうづまる)」に初めて乗り込んだ昭和19年4月ごろには、アメリカ軍はガトー級潜水艦や戦闘機を太平洋に大量投入。高津丸も民間の商船ながら、前後には対空用機銃を据え、他の輸送船やタンカーとともに周囲を駆逐艦や海防艦、戦闘機に守られた護衛船団で航行。田口さんの初仕事は日本から台湾、フィリピンへと島づたいに兵士と武器弾薬を運び、無事に任務を終えることができたが、高津丸は11月10日、レイテ島のオルモック湾の入り口付近で敵機30機による攻撃を受け、沈没した。
 田口さんはその後、南方から「血の一滴」の原油を運ぶタンカー「御津丸(みつまる)」に乗り、船団を組んで九州の門司から台湾、フィリピンなどを経由し、ボルネオやインドネシアの油田から原油を積んで帰った。海の中からは潜水艦、空の上からは爆撃機。いつ攻撃されるかわからない緊張が続くなか、やがて、上空には最新鋭のB24爆撃偵察機が頻繁に現れるようになった。「毎朝10時ごろに偵察機が飛んできたね。夜も必ず決まった時間に飛んできて、われわれの船団がどのルートを通って、どこへ向かおうとしているのかを調べてるんです。2、3の通過点をみれば目的地とルートが分かるでしょ。その先で戦闘機の群れが待ち構えてるんですよ。フィリピンで500機ものグラマンに襲われたことがありました。やっぱりアメリカは日本よりずっと賢いなって思ってました」という。
 さらに、日本の船団を震え上がらせたのは、船が接近したり接触すると爆発する水中兵器の機雷。20年4月上旬、田口さんは山口県の徳山からタンカーに乗り込んで瀬戸内海を通過しようとした際、愛媛県今治沖の来島海峡付近で船尾が機雷に触れた。このときは機関室が浸水し、近くの因島の造船所で1カ月かけて修理。6月上旬、直った船で尼崎のタンクの底にたまった油をさらってこいという命令が下った。戦闘機の標的にならないよう、船をタンクに横付けせず、日が落ちてから沖合に停泊し、平底のバージ(はしけ)がタンクと船の間を何度も何度も往復して積み込んだ。「タンクの底の油なんか、はっきりいってカスみたいなもの。それの積み込み作業を時間のかかるはしけで1カ月ほどかかって、やっとこさ5000㌧ほど積み終んだところでやれやれ」、呉へ戻ろうと船を出したところ、明石海峡の浅いところで機雷に当たった。今度は長さ160㍍ほどの大きな船も真っ二つ。田口さんのいた機械室はすぐに浸水、子どものころから泳ぎは達者だったため、落ち着いて浮き上がって船の残骸にしがみつき、タグボートに助けられた。アメリカは日本の沿岸、周辺海域に1万発以上もの機雷をばらまいていたという。
 幸い、けががなかった田口さんは、会社の神戸支店で着替えをもらい、6カ月分の給料と衣服喪失(沈没)手当を手にして、7月半ばに三尾へ帰郷。兄と父はカナダ、海軍上等水兵だった1つ下の弟博さんは戦病死していたため、三尾の実家で祖母、母、妹と4人で生活しながら、「落ち着いたらまた山下汽船に戻るつもりでいた」が、そのまま終戦を迎えた。
 戦後、田口さんは再び山下汽船の機関士に復帰。21年12月からはシベリア抑留者や中国大陸残留者の引き揚げが始まり、ナホトカ―舞鶴、大連―佐世保を何度も航行した。「大連からの一般の人の引き揚げは子どもも多くいましたが、みんな3、4歳より上の子で、乳飲み子のような赤ちゃんは1人もいなかったのを覚えています」。田口さんが見なかった乳飲み子らはのちに「中国残留孤児」と呼ばれ、日本への永住帰国が本格化するのは、終戦から27年後の日中国交回復からさらに14年、昭和61年になってからである。