9月は県が定める喜の国いきいき長寿月間。 かつて 「アメリカ村」 と呼ばれた移民の村、 美浜町三尾には、 カナダで生まれた96歳の小山ユキエさんが元気で暮らしている。 2歳で三尾へ移り、 24歳で結婚を機にカナダへ渡り、 戦後再び三尾に戻って農業で再出発。 カナダ移民の先駆者、 工野儀兵衛が海を渡って124年、 ユキエさんの健康の秘訣 (ひけつ) は 「体を動かすこと」 で、 いまも近所の人らとグラウンドゴルフを楽しんでいる。
 ユキエさんの父、 田中六松さんと母タキさんはともに三尾の出身で、 カナダのBC州南西部、 リッチモンド市のスティーブストンに移住。 日本人移民が多く、 フレザー川のサケ漁などで発展したこのまちで、 ユキエさんは4人兄妹の末っ子として生まれ、 2歳のときに母とともに三尾へ移ってきた。
 三尾で日本人として育ったユキエさんは、 昭和13年2月、 24歳で同じ三尾の小山佐平次さんと結婚し、 3カ月後の5月には夫婦でスティーブストンへ移住。 翌年には長女、 16年には長男が誕生。 終戦直後の20年12月まで約7年半、 カナダで暮らし、 21年1月に一家で日本へ戻ってきた。
 カナダでは夫佐平次さんがサケ漁に従事し、 ユキエさんもサケの缶詰め工場などで働き、 家計を支えた。 戦争中は日本人に対する差別や強制労働はなかったが、 敵国人として沿岸から100マイル内陸への移住命令が出され、 「日本人移民は1カ所に集めて全員殺される」 といったデマに怯えたこともあったという。 戦後、 カナダ政府は日本人移民に対し、 「カナダへ留まるか、 日本へ帰るか」 の意思を確認。 終戦を機に日本へ帰る人も多いなか、 ユキエさんの家族は留まるつもりだったが、 三尾の親類に説得されて帰国することになり、 6回目の最後の引き揚げ船に間に合い帰ってきた。
 三尾に戻ってからは夫婦とも 「クワを持ったこともない」 農業で再出発。 24年には3人目の二男が生まれた。 長男は学校を出てバンクーバーへ渡り、 佐平次さんは平成2年に亡くなったが、 現在、 日本とカナダに孫が7人、 岐阜にはかわいいひ孫が2人いる。 ユキエさんは最近、 庭の草取りで腰を痛め、 グラウンドゴルフも休んでいるが、 「キャナダ (カナダ) の長男は毎週日曜のお昼に必ず電話をくれます。 このお盆には、 岐阜の孫とひ孫が三尾に遊びに来てくれました」 と笑顔。 健康長寿の秘訣を聞くと、 「いまの楽しみは、 こうして元気でいられることと、 近所の友達とおしゃべりをすること。 家の中でもなるべく動いて、 年寄りはとにかく外へ出なきゃ」 と話してくれた。