和歌山城郭調査研究会顧問の水島大二さん=和歌山市=ら6人は、中世に日高川町和佐・手取城を拠点に日高地方の一部を治めていた豪族玉置氏の家老・原要助氏の土居(屋敷)跡を同町三佐地内で確認した。
 調査には水島さんのほか、会員の谷口敏雄さん=横浜市=、川辺文化協会郷土史同好会会長の清水章博さん=日高川町小熊=らが参加して地元福島開さんが現地を案内した。
 水島さんらは、まず地内に「土井垣内」という字名が残っていることから領主、原氏の屋敷が存在したと推測。地籍図や住宅地図を持って土居垣内と呼ばれる地を調査した結果、田尻地区に隣接したところにある土手の上の平らな田んぼに注目した。土地は東西約30㍍、南北60㍍の大きさ。地形が周辺の田んぼと違って長方形で、道を隔てた東のウメ畑も土居だったという説があり、北側には堀があったと考えられることからこの地に土居が存在したという結論に至った。
 水島さんらはことし1月にも、 同町船津岡本地区で玉置一族の玉置雅楽助(うたのすけ)の土居跡を確認。 水島さんは「手取城と田尻城の間に数々の支城や見張り所を築き、岡本の雅楽助、三佐の要助ら重臣が日高川と対峙する地に土居を構えることで、玉置氏は水運や街道の安全を確保したということ。両城間の地で絶大な力をもっていたことの証明になる」と話している。