数年前、ラジオで聞いた阪神大震災で被災した男性の話。地震直後、あちこちで火の手が上がり、消防車や救急車のサイレンが鳴り響き、家族を失った人やけがをした人が泣き叫ぶ。買ったばかりのマンションが全壊したこの男性は、幼い子を抱いて妻と何時間も歩いて大阪へ向かった。「途中、道沿いに100体以上の死体があったが、みんな、見て見ぬふりで黙々と歩いた。あの経験のおかげで、いまは何も辛いとは思わない」という。
 東日本大震災から1年が過ぎ、メディアはこの3・11をカウントダウンで迎えた。テレビは津波の映像が子ども精神的ストレスとならぬよう配慮しつつ、あらためてショッキングな映像を放送した。17年前はまだネットの動画サイトもなかったが、いまはテレビ局がいくら自主規制をかけても、ネットに津波の映像が山のように公開されている。逃げる人が波につかまる瞬間もあれば、車を運転中に車ごと津波に流されながらも九死に一生を得た人も。貴重な記録映像として放送すべきと思われるものもある。
 件の神戸の男性は、大震災の地獄を経験したことで、鋼のように精神面が鍛えられた。「死」は悲しく、怖く、汚なく、ときに理不尽なもので、だれもが不安や恐怖を感じるが、もっと身近な暴力や謀略による痛みと同じく、それを少しずつ経験していくことで「生きる強さ」につながり、ロールプレイングゲームでいう「経験値」がアップする。
 害虫やばい菌、恐怖、醜悪のない無菌社会は一見清潔で平穏でも、度が過ぎた消毒は肉体的にも精神的にも人を弱らせる。恐ろしい津波の映像もある種の必要悪として規制をかけつつも、根絶すべきものではない。   (静)