昭和19年2月、戦死した山本五十六元帥の妻と二女、二男の3人がお手伝いの女性を連れて、和歌山県日高郡塩屋村(現御坊市塩屋町)に疎開した。寓居先は塩屋国民学校(現塩屋小学校)の正門南隣の平井忠夫さん宅。家主の忠夫さんは戦前から大阪毎日新聞の記者として活躍しており、西宮に家を借りて母チカさん、妻清子さんとともに暮らしていたが、戦局の悪化に伴い、チカさんと清子さんは塩屋へ。山本元帥の遺家族が疎開してきた当時、忠夫さんは単身赴任の形となっていた。塩屋の実家では山本元帥の遺家族を迎えるにあたり、チカさんと清子さんは母屋を譲り、離れで生活。山本元帥の二男忠夫さんは塩屋国民学校へ、3つ年上の二女正子さんは日高高校の前身、日高高等女学校へそれぞれ転入した。
 当時、日高高女は現在の市民文化会館付近にあって、正子さんの同窓生、野村あけ子さん(81)=北塩屋=は同じ塩屋ということで正子さんと仲良くなり、毎日、一緒に4㌔ほどの距離を歩いて通った。あけ子さんらの学年は3クラス。19年11月の学徒動員では、月組のあけ子さんは名屋の日本アルミ御坊工場、花組の正子さんは島の石川島航空製作所日高工場へ動員となったが、農家の勤労奉仕では一緒に森岡(南塩屋)の田んぼで稲刈りを手伝った。その後、20年3月には正子さんが石川島航空の横浜工場へ動員され、日高高女を卒業することなく、弟の忠夫さんら家族が東京に戻ってからは動員を免除され、再び塩屋を訪れることはなかった。
 あけ子さんによると、正子さんも忠夫さんと同様、山本元帥の子であることに高ぶったところはまったくなく、明るくしっかりした真面目な女の子。「外で遊んだり勉強するのが好きでした。試験の前には朝から2人で浜まで行って勉強し、家で食事をごちそうになって、そのまま泊めてもらったこともありました」と振り返り、「戦死したお父様のことについては一度だけ、『生きていれば戦犯にされ、刑を受けることになるだろうな。(撃墜された)飛行機で亡くなってまだよかったのかもしれない...』と、さみしそうに話していたのを覚えています」という。
 死後、「軍神」とまでいわれ、終戦までは国民の戦意高揚のため英雄扱いだった山本元帥海軍大将。その遺家族がなぜ山本元帥の故郷新潟県長岡市でなく、妻礼子さんのふるさと福島県会津若松市でもなく、和歌山県の塩屋へ疎開したのか。その謎を解くには、地元の故老が「よきっちゃん」と親しみを込めて呼ぶ村の名士、塩崎与吉氏がキーパーソンとなる。
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支那事変の作戦で大活躍をみせた海軍上海特別陸戦隊の司令官、大河内伝七中将㊨と与吉氏(昭和12年撮影、出店さん提供)
 文学博士で和歌山市立博物館の館長を務める寺西貞弘さん(58)の調査などによると、与吉氏は明治14年生まれで、明治末から大正初年にかけて海運業を起こし、神戸を拠点に海軍出入りの実業家として成功。娘は京都府選出の元衆院議長前尾繁三郎の妻で、「貧乏人は麦を食え」で有名な池田勇人元首相ら政界の大物や、松下幸之助の義理の弟で三洋電機創業者の井植歳男ら財界のトップとも親交があった。
 
 
 神戸で海運業を起こし、塩崎汽船の社長として功成り名を遂げた塩崎与吉氏は兵庫県芦屋に自宅があり、北塩屋の秋祭りなどでは多額の寄付をしたという話も伝えられている。南塩屋出身で元湯川中学校校長の土屋博さん(83)=御坊市湯川町小松原=は「神戸で成功してからも愛郷心の強い人で、海軍払い下げの廃船を買い、それを塩屋の沖に沈めて漁礁にしたなどという話は、小学校の説話になっていました」と振り返る。日本一の麻雀牌メーカーとして有名な大洋化学㈱の創業者、故上西幹一氏の妻好子さん(85)=御坊市湯川町小松原=は昭和30年代後半、3回ほど芦屋の与吉氏の豪邸に招かれ、「門から玄関まで歩くのが疲れたほど大きなお家で、初めてお邪魔したときは何もかも驚きの連続でした。与吉さんは松下幸之助さんの奥さま(むめの)の弟、井植さんとも親交があって、のちにその豪邸は井植さんが買われたと聞いています」という。また、終戦直後とみられるころには、「相撲の神様」と呼ばれた昭和の大横綱、双葉山が地方巡業で御坊に来たこともあり、その際、宿泊したのが「塩屋の神さん」与吉氏の別荘だった。
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終戦直後か。巡業で御坊を訪れた「相撲の神様」こと横綱双葉山(前列中央)が「塩屋の神さん」と呼ばれた塩崎与吉氏の別荘に宿泊。一緒に写っているのは与吉氏の親類(出店さん提供)
 和歌山市立博物館の寺西館長は、昭和18年後半から19年はじめにかけて、B29による空襲がしだいに激しくなりはじめた当時は、まだ学童疎開促進要綱が閣議決定される前。海軍が山本元帥遺家族の疎開先をさがすなか、国民の間では、田舎への疎開は「まちを捨てて逃げる卑怯者」というイメージが強かった。このため、山本元帥と妻礼子さんのそれぞれの故郷、新潟と福島は候補から外れ、横須賀や呉、佐世保など海軍の拠点都市も空爆のターゲットとなる可能性が高い。そこで、万一に備えて海軍の庇護の下、かつ空襲の可能性が低い地方が候補に挙がり、紀伊防備隊のある小軍都由良から近く、海軍も信頼を寄せる与吉氏の故郷塩屋に決まったのではないかと推測する。
 山本元帥の遺家族は当初、北塩屋の与吉氏の別荘に身を寄せていたが、しばらくして南塩屋の国民学校に隣接する平井忠夫さん宅に移った。かつては「老松(おいまつ)」というブランドの造り酒屋で、現在も戦争当時のまま残る平井さん宅には、紀伊商事田辺営業所に勤務する忠夫さんの長男光さん(64)と妻ゆり子さん(63)が暮らしている。光さんによると、父忠夫さんは25年前、76歳で他界し、祖父の豊吉さんについては「外国回りの商船の船長だったと聞いてます。もしかしたら同じ海の仕事の関係から、同郷の与吉さんと知り合いだったかもしれません」という。海軍による遺家族の疎開先さがしに与吉氏が関与し、豊吉さんはすでに亡くなっていたが、与吉氏と生前の豊吉さんが昵懇の間柄だったとすれば、妻のチカさんと忠夫さん夫婦が遺家族受け入れを打診された可能性も考えられる。
 ゆり子さんは亡き祖母チカさんと義母清子さんから山本元帥遺家族の思い出をいろいろ聞いており、「五十六さんのご家族は近所の方からよく鯛など高級な魚をいただき、たくさんあるときはおばあちゃんとお母さんも分けてもらったとか」「五十六さんの奥さんの礼子さんは東北弁がきつく、お母さんは『なんていってるかわからなかった』と笑っていました」「空襲警報が出たときは、お母さんが着の身着のまま、何よりも真っ先に山本さんの元帥刀を抱え、庭の防空壕へ逃げ込んだそうです」という。
 大東亜戦争(太平洋戦争)の口火を切った真珠湾攻撃からきょうでちょうど70年。山本元帥はその奇襲作戦を立案・指揮し、緒戦の快進撃の立役者として、その名を抜きに戦争を語ることはできない人物だが、戦死後に残された家族が御坊に疎開していたことを知る人も、戦争体験者と同じく少なくなりつつある。  (おわり)
 この連載は、玉井圭が担当しました。