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昭和16年12月8日、日本はついに真珠湾の太平洋艦隊への奇襲攻撃で対英米戦に突入
 昭和15年9月27日、日本はドイツ、イタリアと3国軍事同盟を締結した。16年4月には松岡洋右外相がモスクワで日ソ中立(不可侵)条約を結ぶが、約2カ月後に独ソ戦が勃発。ドイツの勝利を信じる日本は2度にわたって仏印(フランス領インドシナ)に進駐し、これによりアメリカは日本が約8割を依存している石油の日本への禁輸を決定した。近衛文麿首相は無謀な対米戦を避けようと、懸命の外交交渉に望みをつないだが、事態は思うように進展せず、開戦強硬派の陸軍の反発を受け、16年10月、内閣を投げ出した。アメリカでは和歌山市出身の野村吉三郎と来栖三郎の2人の駐米大使が米国国務省との交渉を続けていたが、この時点でアメリカは野村らの日本外務省との暗号電報をすべて解読。ハル国務長官はヨーロッパ戦線に参加する口実がほしいという思惑を隠し、日本に対して3国同盟の破棄などを条件として突き付けた。
 こうしたアメリカの挑発にのせられ、日本はついに対英米開戦を決意。最後まで対米戦反対論者だった海軍の山本五十六連合艦隊司令長官は、戦うとなれば緒戦でハワイの太平洋艦隊を叩いて主導権を奪い、早期の講和に持ち込むしかないと考え、敵主力艦が停泊する港に奇襲攻撃を仕掛け、ゼロ戦による魚雷攻撃で一網打尽にする作戦を立てた。日本時間12月8日未明、択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾から密かに南下した南雲忠一中将指揮の旗艦赤城、加賀など6隻の空母がハワイ・オアフ島に接近。3時19分、第一波攻撃隊が真珠湾上空から一斉に突撃した。
 水深12㍍の真珠湾で、航空機から投下する魚雷を戦艦に命中させるのは、当時の常識では考えられない攻撃方法。日本の航空隊は鹿児島の錦江湾などを真珠湾に見たて、通常なら60㍍沈む魚雷が沈まない投下法を訓練し、魚雷そのものにも改良を加えていた。浅い水深に油断があったアメリカ海軍は魚雷ネットなどの防備を怠っており、日本軍の奇襲によって5隻の戦艦、2隻の駆逐艦などを失い、航空機188機が破壊され、戦死者は2300人以上。山本長官の作戦は大きな戦果を挙げた。
 しかし、日本の快進撃は長くは続かなかった。「半年、1年は大いに暴れてみせましょう」。開戦前、近衛首相に答えたという山本長官の悲観的な読みは、わずか7カ月後の17年6月、ミッドウェー海戦の大敗を機に的中してしまう。秋から18年2月にかけてのガダルカナルの戦いにも敗れ、4月18日、前線視察に飛び立った山本長官の乗る長官機が上空で待ち伏せていたアメリカ軍のP―38戦闘機に襲われ、墜落。山本長官は頭部の銃弾貫通で即死だった。享年60。東京に妻と4人の子どもが残された。
 山本長官の死は1カ月以上隠され、5月21日にようやく大本営発表として国民に公表された。6月5日には東京で国葬が行われ、軍人最高の栄誉称号「元帥」が贈られた。戦局は日に日に悪化、制海権、制空権がアメリカの手に渡り、補給路も断たれたなか、日本軍は太平洋の島々で玉砕を重ねた。サイパンを重要拠点とする絶対国防圏が破られると、新型爆撃機B29が本土を爆撃するようになった。19年2月、山本元帥の遺家族5人のうち、すでに成人していた長男義正さんと長女澄子さん(当時18歳)以外の妻礼子さん(47)、二女正子さん(14)、二男忠夫さん(11)の3人が和歌山県日高郡塩屋村(現御坊市塩屋町)へ疎開した。
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昭和19年度の6年桜組に転校してきた山本元帥の二男忠夫さん(前列中央)。左は担任の石垣先生、後列右が山田さん(写真は山田さん提供)
 山本五十六元帥の妻礼子さん(47)、二女正子さん(14)、二男忠夫さん(11)が身を寄せたのは、「塩屋の神さん」と呼ばれた地元の名士、塩崎与吉氏の別荘。現在も、国道42号北塩屋交差点の北側、国道わきから急な石の階段を上がった小高い丘に当時のまま残されている。与吉氏の兄の孫で、市内本町3丁目商店街で製麺販売の「ほてい屋」を経営する出店順吉さん(80)によると、山本元帥の遺家族はしばらくこの別荘に住んでいたが、忠夫さんが転入した塩屋国民学校(現塩屋小学校)まで遠く、階段の上がり下りもたいへんだったため、国民学校正門の南隣にある平井忠夫さん宅に移り住んだという。
 山本元帥の二男忠夫さんは2月11日付で東京の青南国民学校から塩屋国民学校に転入。山本元帥の子息を迎えるにあたり、県は当時、県内随一の名門とされた県立和歌山師範学校付属校から蓮池進氏を教頭に、御坊小からのちに和歌山市教育長も務めた石垣勝二氏を担任の訓導に異動させた。石垣氏は男の子ばかりの6年桜組の担任となり、同級生になった元内原小校長の山田栄一さん(79)=北塩屋=によると、忠夫さんは、親を戦争で亡くし、塩屋の親類に引き取られた子ら6人と一緒に転校してきた。4月の新学期初日、教室で石垣先生から忠夫さんが山本元帥の子どもであることを紹介されたが、「特別な扱いはまったくなく、他の6人と同じ普通の転校生でした」という。
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昭和18年ごろの塩屋国民学校 (写真集 「御坊市の姿」 より)
 貧しかった時代、地元の小学生は1年生のときに大きな制服を買い、それを6年間着続け、6年生になると色あせてつぎはぎだらけという子が多いなか、忠夫さんは詰め襟の海軍のような制服で異彩を放っていた。言葉は江戸っ子で少し荒っぽくも聞こえたが、明るく活発、勉強はよくでき、級長を務めた。学校が終われば山田さんらと毎日のように遊び、山田さんらが忠夫さんの寓居先に遊びに行くことも多かった。家の棚には山本元帥が天皇陛下から授かった元帥刀や功一級金鵄勲章、ナチスドイツが唯一外国人に贈った柏葉剣付騎士鉄十字章などの勲章がずらり。山田さんは「ふだんは近づくこともできないんですが、お母さんやお手伝いさんがいないとき、忠夫さんが『見せてやろうか』とささやき、こっそり元帥刀を抜いて見せてくれたことがありました」と振り返る。
 また、出店さんは忠夫さんより1つ上で、中学生だったが、ある日、忠夫さんが由良の海軍紀伊防備隊まで汽車に乗って行くことになり、塩屋出身の母にいわれ、案内役として同行した。「由良の駅からバスに乗って基地まで行き、着いたとたん、制服を着た軍人が表にずらりと整列し、山本元帥のご子息の忠夫さんに直立不動で敬礼したんです。私はそれにびっくりして、すっかりおびえてしまったのを覚えています」と話す。
 忠夫さんは20年3月に小学校を卒業すると家族とともに東京に戻り、学習院中等科へ進んだ。大学を出てからは読売テレビに入社、その後、NHKに移り、人気番組「新日本紀行」などの番組制作に携わったという。山田さんら塩屋町の同級生らとの交流は生涯続き、御坊での同窓会には必ず出席。また、関西への出張などの際に塩屋に来ては山田さんら昔の友人と会い、小学校時代の思い出を肴に酒を酌みかわした。
 家族ぐるみの付き合いが続いた山田さんは、「少年時代、わずか1年余りの塩屋での生活でしたが、山本君(忠夫さん)はいつも『塩屋は私のふるさと』と話してました。兄の義正さんはお父様の威光を意識された人生だったようですが、山本君からお父様のことや戦争のことを聞いた記憶はありませんね」と振り返り、妻百合子さん(73)も「塩屋へ来ると必ずうちに寄ってくれました。すごく気さくな方で、うちの子どもたちもすごくなついて、かわいがってくれました」。そんな忠夫さんはいまから4年ほど前に他界。早くに妻を病気で亡くし、晩年は千葉で1人で暮らしていたという。
真珠湾から70年⑩ 山本元帥家族 塩谷へ㊦