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「毎日、いつ爆弾が頭の上に落ちてくるかもわからん。子どもながら、そんな怖さと緊張はありました」と後藤さん(由良町畑の自宅で)
 軍事力はもちろん、経済、科学技術、政治などすべての国力を動員し、「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」などといった戦意高揚、生活統制のスローガンの下、女性や子どもまでがあらゆる分野で戦力、労働力として徴用された大東亜戦争(太平洋戦争)。日本にとっては建国以来、初めての国家総力戦となり、都会では女性のトラック運転手、郵便配達員、工員らが社会に進出、戦時体制の労働力不足を補った。いわゆる「銃後」の暮らし。家庭を守る女性、子どもたちはそのとき、何を考えていたのか。
 由良町畑に住む後藤包子(かねこ)さんは昭和9年7月15日、父坂本力蔵さんと母サワさんの長女として生まれた。現在77歳。開戦時は畑国民学校の1年生だった。父力蔵さんは当時39歳で、地元警防団の班長をしていた。警戒警報が出るたび、「じてこ(自転車)でメガホンを持って、家の灯りをつけやんように、怒鳴って回ってた。お父さんはちょっと吃音があったんやけど、近所の男の子らがそれを面白がって、私をからかいにきたよ。いまの時代ならいじめやね。私はそれが悔しい気持ちもあったけど、そんなことに怒ったり悲しんでる余裕がなかった」。毎日、食べて生きていくことに必死だった。
 由良駅の近くには「追い出せ買い出し 高めよ供出」というスローガンが書かれた看板があり、包子さんの家のミカン畑も軍によってイモ畑にかえられた。「毎日、麦ごはんの上におかいさん(イモがゆ)をかけて、おかずは金山寺みそと漬けもん」。魚は10日に1回、肉はイノシシかウサギがごちそうで、牛肉は汽車に乗って湯浅まで行かなければ手に入らなかった。
 昭和20年6月のある日の朝、10歳の包子さんはまだ1歳か2歳の妹常子さんをおんぶし、母サワさんと、畑と中の間にある町内一大きい白山池(はくさんいけ)の近くで田植えの準備をしていると、サワさんが突然、「伏せぇ!」と叫んだ。両手で両耳、両目をふさいだ直後、地響きとともに大きな爆発音が聞こえた。幸い、3人ともけがはなかったが、包子さんは顔に生温かい風を感じた。爆弾は池から500㍍ぐらい離れた山に落ちた。由良駅を狙った爆弾がそれたらしかった。由良町誌には 「6月25日午前9時ごろ、B29が中区付近の山に爆弾を投下した」という目撃者の記録があり、包子さんの体験と同じと思われる。
 「とうとう負けたんやと...」。8月15日の朝、母のサワさんがつぶやいた。正午からの終戦の詔勅、いわゆる玉音放送は家のラジオで聞いた。両親は日本が負けた悔しさに涙を流していた。午後、包子さんは母と妹、隣の家のお姉ちゃんとともに開山(かいさん=興国寺)の会式に出かけた。いつ爆弾が落ちてくるかもしれない恐怖があった包子さんは、手を合わせながら、「戦争が終わる▼殺されずにすむ▼姉弟みんなが大人になれる」という素直なうれしさがあった。しかし、最後まで日本は勝つと信じていた大人たちはショックを隠さない。あれから66年が過ぎたいま、包子さんは「みんな内心は私とおんなじ気持ちだったと思うけど、私の両親はどうやろ? やっぱり勝つと思てたんかな...」と首をかしげる。
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戦争末期には全国の学校で銃剣術やなぎなたが体育の授業に組み込まれた(旺文社「図説学習日本の歴史」より)
 「あのころ、私の家は区内を見下ろす『そら山』の登り口にあって、壕(防空壕)を掘る兵隊さんの休憩所になってました。少年兵から下士官の軍曹、准尉までがよく出入りして、なかには朝鮮の人もいました」。御坊市湯川町富安の阪本清子さん(82)は大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時、日高郡湯川村立湯川尋常小学校6年生の12歳。毎日、5つ下の妹と一緒に山を越え、家から3㌔以上もある学校まで歩いて通っていた。
 家のそばには「明神(めんじ)さん」と呼ばれる小さな社があり、よく少年兵がラッパの練習をしていた。ある日、ラッパを吹いていた少年兵が何を失敗したのか、上官にこっぴどく怒られていた。あまりの大きな声に近所の人も集まり、少年兵が何発も鉄拳を食らう様子を「かわいそうに...」と見ていたが、清子さんの母がつかつかっと2人に近づくや、「あんた、なんでこの子をたたくんな!
 もうたたかんといたって!」と上官に噛みついた。近所の人が慌てて止めに入り、とくにお咎めもなかったが、清子さんは「あのときは近所の人が母に、『あんたがあんなことしたら、あとであの子(少年兵)がエライめにあうんやで』といってきかせていたのを覚えています。あれはちょっとした事件でした」と振り返る。理不尽なことは許せない勝ち気な半面、人にはやさしかった母。常に腹をすかせている少年兵や朝鮮人労働者には、「これ食べやんせ」と、家で作ったイモやナンバ(とうもろこし)を分け与えた。そんな母と家族に対し、壕掘りの兵隊や労働者はみんなやさしかった。
 清子さんは尋常小学校を卒業後、以前の高等小学校にあたる国民学校高等科に進んだ。学校は小学校と同じ場所にあるため、高等科になっても小学生と同じ通学路を歩いて通っていたが、子どもながらに戦局の悪化は肌で感じていた。勤労奉仕、学徒動員の名の下、高等科ではほとんど学校で授業を受けることはなく、藤田村(現藤田町)にあった製紙工場(現旭化成和歌山工場)へ働きに行き、白馬山に登って炭の原料の木を背負って下りてきたこともあった。「学校では本土決戦に備えて、アメリカ兵を倒すためになぎなたを習いました。また、朝、学校へ行く途中、アメリカの艦載機が北から飛んできて、みんなで橋の下に隠れたこともありました。撃たれはしませんでしたが、すごい低空飛行で、たぶん、パイロットが面白がって飛んでたんでしょうね」という。
 昭和20年8月15日、玉音放送は向かいの家のラジオで聞いた。その日も来ていた兵隊たちはみんな肩を落とし、泣いている人もいた。16歳の清子さんは「戦争が長引くにつれ、知り合いの人も赤紙召集を受け、戦地で亡くなりました。その戦争が終わることにホッとしましたけど、この先どうなるのかという不安も大きかったです」。あの日から66年、陸軍の航空機整備兵として、福岡県の太刀洗飛行場で特攻機の整備にあたった夫も、8年ほど前に他界した。「私ももういつお迎えがくるやら」と笑いながらも、大好きな猫をひざにのせ、静かで幸せな毎日。孫たちの若い世代に「あの時代は、心から笑うことは一度もありませんでした。二度と繰り返さないで」とやさしく語りかける。