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昭和20年4月14日、前線基地へと向かう前、永久の記念として撮影された中西伸一少尉 (明野陸軍飛行部隊で)
 「御国のためにいさぎよく 花と散りにし人々の...」「命は軽(かろ)く義は重し その義を踐(ふ)みて大君に 命ささげし大丈夫(ますらお)よ...」。大正12年1月4日、日高郡和田村(現在の美浜町和田)に生まれた中西伸一さんは、旧制日高中学校から和歌山師範学校を卒業し、昭和18年春、地元の和田国民学校に教師として赴任した。ラジオからは日本軍の進撃を伝える大本営発表のニュースが流れ、学校では子どもたちとともに『兵隊さん』『靖国神社』など忠君愛国の精神に満ちた唱歌をうたった。日本は前年5月、ミッドウェー海戦で敗れ、村から赤紙(召集令状)で出征する人が出るたび、子どもたちと一緒に道に並んで日の丸を振り、万歳で見送った。また、農繁期には男手を兵隊にとられた農家のため、子どもたちと手伝い(勤労奉仕)に行くことも多くなってきた。
 「日本人の男に生まれたからには、自分も国のために戦わねば...」。秋になると伸一さんは教師を辞め、陸軍特別操縦見習士官に志願した。三尾小学校の校長をしていた父介造(すけぞう)さんには、息子が自分と同じ教師になったのもつかの間、妻の時代(ときよ)さんとともに伸一さんの決断、三重県伊勢市の明野陸軍飛行学校への入校を喜んだ。伸一さんより7つ下で13歳だった三男の雅也さんも、「僕もいつかのぶちゃんのように航空兵になる」と心に決め、「日本は絶対に勝つ」と信じていた。
 その後、伸一さんは福岡県の太刀洗(たちあらい)航空隊に配属された。そこは日本陸軍が「東洋一」と誇った航空戦略拠点。伸一さんには三式戦闘機「飛燕(ひえん)」が与えられ、ここで本格的に飛行兵としての訓練を受けた。
 昭和19年年末のある日、伸一さんが1人で実家に帰ってきた。特別にあらたまった様子もなく、軍服を脱ぎながら、両親に特攻隊に志願したことをあっさり告げた。介造さんは「そうか。ようやった。よかった」と喜び、時代さんは「伸一、お国のためにしっかり手柄立てなあかんよ」とうれしそうに手を握った。特攻といえば、片道の燃料と爆弾を積んで敵艦に体当たりする自爆攻撃、出撃すれば生還は許されない「死」の宣告も同じ。いま、80歳になった雅也さんは「あのとき、私はそばで3人を見ていましたが、父の喜びにも母の笑顔にも偽りはありません。いまでこそ、かわいそうという気持ちにもなりますが、特攻兵として国家に殉じ、軍神として靖国神社にまつられるのは最高の名誉とされていた時代にあって、特攻志願は中西家にとっての誇りでした」。あの日の少年は、兄に続いて軍人になるという思いがますます強くなった。
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昭和20年5月9日夜、出撃を前に家族にあてて最後に書かれた手紙
 年が明けて昭和20年4月、雅也さんら家族が家で晩ごはんを食べていたとき、「ただいま」と伸一さんが帰ってきた。ガダルカナル、グアム、サイパン...絶対国防圏が崩壊し、戦局が明らかに悪化していた当時。介造さんと時代さんは息子の出撃も遠くないと考えていた。思いがけない伸一さんの帰宅に、介造さんが理由を聞くと、「九州で訓練飛行をしていたとき、故障で車輪が出なくなり、筑後川へ不時着(胴体着陸)してしまった。幸い命は助かったけど、飛行機は使い物にならなくなったので、別の機を明野(三重県)へとりに行く途中、帰ってきた」という。雅也さんはまさかの兄との再会、久しぶりの一家だんらんに笑い声が響いた。
 翌日、家族全員で歩いて御坊駅まで伸一さんを見送った。駅に着き、普通なら家族もホームに出るところ、このときはなぜか改札を挟んでのお別れ。おそらくこれが最後になるだろう。お互い、みんなが予感していた。介造さんは「頑張れよ」、時代さんは「手柄を立てなあかんよ、伸一」。このとき、伸一さんは明野で飛行機を引き取り、九州へ戻る途中、都合がつけば和田へ飛んでくることを約束した。「のぶちゃんの飛行機が来る!」。学徒動員で御坊の石川島の工場(現在の大洋化学のある場所)で働いていた雅也さんは、伸一さんと別れてから、毎日、首を長くして空ばかり見ていた。
 5月4日の昼前、夜勤明けの雅也さんの耳に飛行機の爆音が聞こえた。近所の人が米軍機だと思い、家を飛び出した雅也さんに「危ない。戻れ!」と叫ぶが、航空隊を目指し、飛行学校のパンフレットを取り寄せていた雅也さんの目にはすぐに飛燕だと分かった。屋根に上がり、懸命に日の丸を振った。すると、伸一さんは家の上を3回旋回し、全児童がグラウンドに出ていた近くの和田国民学校の上を旋回。さらに介造さんが勤務する三尾の国民学校も回って九州の空へと消えて行った。
 しばらくして、九州の伸一さんから家族あての手紙が届いた。書かれたのは5月9日夜。高まる士気、出撃の喜び、天皇陛下のために死ぬことが一家の栄誉であると信じる気持ちがつづられ、最後に「では、笑って往きます。どうかご両親様はじめ、皆さま、くれぐれもお体ご自愛され、この重大戦争を勝ち抜いて下さい。沖縄決戦を夢みて...」とくくられていた。それから2週間ほどが過ぎた5月25日の朝早く、どうやって知ったのか、介造さんがまだ寝ている子どもたちを起こし、「きょうは伸一が出撃する日や」といった。雅也さんら兄妹は両親にならって、沖縄の方角に手を合わせた。
 その後、見知らぬ2人の兵隊が家を訪ねてきた。1人は伸一さんらを護衛した直掩機(ちょくえんき)の搭乗員。「中西少尉は5月28日、敵艦に見事命中、敵艦を沈めました」と報告した。家族で沖縄を向いて手を合わせた25日、予定通り、鹿児島の知覧基地から9機の編隊で出撃したが、天候悪化で伸一さんら3機は引き返し、28日にあらためて、伸一さんが隊長となって再出撃したのだという。陸軍特別攻撃隊第五四振武隊 中西伸一少尉 享年22。父介造さん、母時代さんはともに涙をみせることなく、ひとこと、「ようやった」「よかった...」とつぶやいた。
真珠湾から70年③の下 故・中西伸一さん