黒地の紗に刺繍の鯉が躍る夏帯を持っている。30代初めの頃きものに目覚めて、着付け教室や和裁教室に通い、まめにきものを着ていた。そのときにデパートのきもの市で一目惚れして、ちょっとお高いな、と思いながらも、どうしても欲しくて買った夏の名古屋帯。お太鼓や胴のところに勢いよく跳ね上がる鯉は、鮒色のグラデーションがとても美しくて、もう芸術の域に達している。鯉が吐く気泡は、ぐるぐると丸く布地にはわせた銀糸を細い綴じ糸で縫い留めていく金駒刺繍(きんこまししゅう)で表現されていて、なんとも涼やか。刺繍職人のていねいな手仕事がため息が出るほど細やかで、何度も見入ってしまう。
でも実は、こんなに大事にしている帯なのに、二回しか使ったことがない。一回は、知人との食事会。青山霊園にお墓参りに寄ってからランチをしようとの流れだったので、淡いネズミ色の綿麻の夏着物に鯉の帯をお太鼓に結んで、帯締めの赤を利かせつつ落ち着いた雰囲気に合わせた。もう一回は、友達との銀座での街歩き。紫の地色に白のよろけ縞の入った紗のきものに合わせてちょっと粋な感じにしつつ、半襟と足袋と草履は白にして上品さも加えた。大好きな鯉の帯を使ったコーディネートをあれこれと考えるのは楽しくて楽しくて、もう20年近くも前のことなのに着たときの組み合わせもよく覚えている。
それにしても夏きものを着られるのは、7月と8月の盛夏が基本。近年の夏は猛暑酷暑で、夏きものなど暑くて着られたものじゃない。鯉の帯を使いたいのはやまやまだけど、汗浸みが怖いし、今年もきっと着られないなあ、と刺繍の鯉を眺めるばかり。(亜)


