まさか…19歳の兄が戦地へ

御坊市の宮本眞琴さん(100)

 280万平方㍍という広大な敷地の鈴鹿海軍工廠では、航空機の二式13㍉旋回機銃や弾薬を製造。眞琴さんは機銃弾や信管など火薬関連を作る火工部に配属され、事務方として働いた。そのころ、工廠はさらに労働力を確保するため、要員募集のポスターを作ることになり、職場の大勢の女性の中から、眞琴さんがモデルに指名された。

 眞琴さんがデスクで製図をしながら、カメラに向かってほほ笑んでいる構図。ポスターは記念に1枚だけ戦後も長く保管していたが、残念ながら数年前に処分してしまった。眞琴さんは「あれは関西各地に張られたと思いますが、のちに帰省して同級生に会ったとき、『あんた、三重へ行ってよう頑張ってるんやな。御坊にもまこちゃんのポスター張ったぁるで』といわれて、顔が赤くなったのを覚えています」と振り返る。

 1944年(昭和19)7月、サイパンが米軍の手に落ちると戦況は急速に悪化。10月には、小浦の家から思いがけない知らせが届いた。兄の眞澄さんが徴兵検査の通達を受け取り、近く検査を受けることになったという。

 眞琴さんは首をかしげた。「兄さんは私より一つ上だから、いまはまだ19歳。徴兵検査は満20歳以上が対象なので、兄さんはまだ検査を受けなくてもいいはず。何かの間違いでは…」。確認すると、たしかに徴兵は原則満20歳以上が対象なのだが、兵員不足により、この年から検査の対象年齢が満19歳以上に引き下げられていた。そのため、眞澄さんは一つ上の人たちと一緒に検査を受け、結果は甲種合格。現役兵として陸軍に入隊することになった。

 短期間の訓練で兵士として鍛えられた眞澄さんは、中国内陸部の武漢周辺へ送られた。当時はまだ陸軍の重要な補給拠点として機能していたが、戦線が奥地へ伸びるにしたがって食料や医療物資は思うように届かなくなった。そんななか、眞澄さんは感染症にかかり、十分な治療を受けることができず、45年(昭和20)2月9日、帰らぬ人となった。享年19。徴兵検査を受け、慌ただしい入営からまだ数カ月しかたっていなかった。

 そのころ、実家は眞澄さんの入営で母静子さんが1人になってしまったため、眞琴さんが兄と入れ替わるように、鈴鹿の海軍工廠を辞めて小浦へ戻っていた。眞澄さんが中国で亡くなったあと、県から黒い縁取りの死亡告知書が届いた。静子さんも眞琴さんも文面を一読して意味を理解できなかったが、静子さんの我に返ったような「あっ」という声で張り詰めた沈黙が破られた。

 「まさか、兄さんが…」。

 眞琴さんは全身が黒い穴に引き込まれるような感覚に襲われた。 

 眞澄さんは体が大きく、怒るとちょっと怖かったが、自分と違って几帳面な性格で、誰に対してもやさしかった。「家で机を並べて勉強していたら、教科書や帳面で散らかった私の机を見て、『おまえは女のくせにだらしなくて、よくしゃべる』と笑っていました」。いまも目を閉じれば、若く心身とも健全な兄の笑顔がよみがえる。