特攻のための特攻、義烈空挺体
御坊市の大川秀樹さん ホール靖代さん
米国との戦争末期、鹿児島の知覧から飛び立った神風特別攻撃隊のほか、「特攻のための特攻」と呼ばれた存在があった。正義を守る非常に強い心を意味する「義烈」の名を冠した、義烈空挺隊。戦争末期の1945年(昭和20)5月24日、熊本県の健軍飛行場から出撃し、沖縄戦を戦った陸軍の空挺(パラシュート・強行着陸)部隊である。航空特攻隊の突入を成功させるため、生還を期さない致命的な任務に赴くこととなった。
沖縄戦の前年、44年7月にサイパン島が米軍に占領され、その飛行場から出撃するB29による首都圏への空襲の懸念が一気に高まった。日本軍は、サイパンに空挺部隊で組織した特殊部隊を送り込み、地上でB29を殲滅(せんめつ)することを計画。三重県出身の奥山道郎大尉を隊長とする「神兵皇隊(しんぺいすめらたい)」が編成された。隊員らは自分たちの目標がB29だと知ると、「我々がB29をやらなければ、日本全土が焦土と化す」と一兵に至るまで決心したという。

45年に入り、神兵皇隊はサイパンへの出撃基地となる浜松飛行場へ前進。名称は「義烈空挺隊」に改められた。大義に殉じる「義」の心と、生還を期さない激しい闘志・気魄である「烈」の精神を合わせ、称されている。
4月、沖縄に連合軍が侵攻。沖縄本島の飛行場への空挺特攻作戦(義号作戦)が決行されることとなった。
隊員たちは遺品を整理したあとは手元に一銭も残さず、全額を国防献金に拠出。5月24日に出撃が決定し、上空を戦闘機が援護するなかで出陣式が行われた。金峰山に傾く夕陽に向かって、隊員らは別れの盃を交わした。
報道班員のリクエストで奥山隊長は1番機に搭乗する飛行隊長と握手を交わし、「映画の名優並みですね」と笑いながら言って、隊員らも大笑いした。しかし、取材陣が帰ると笑顔は消え、暗い顔で静まり返ったという。
そして沖縄の嘉手納飛行場、読谷飛行場に向かって97式重爆撃機12機が出撃した。4機が機体不調で引き返し、8機が突入。激しい戦闘で米軍飛行機33機を損傷させたが、113人が戦死した。
御坊町島(現御坊市島)出身の中本甚之助さんも、その時に戦死した113人の1人だった。享年23。3番機に搭乗しており、戦死場所は沖縄の中飛行場(現嘉手納飛行場)と北飛行場(現読谷補助飛行場)の近くと伝わる。
中本さんの遺族、めいの秋山伊津子さん(68)と東多美子さん(62)、姉の孫に当たる大川秀樹さん(67)とホール靖代さん(64)は今年5月、中本さんらが出撃した健軍飛行場のあった熊本市を訪ねた。昨年の戦後80周年を機に、「一度は訪ねてみなければ」と親族で声をかけ合って実現した旅である。

