6世紀中頃、中国大陸から現在の朝鮮半島を経て仏教が伝わった。当時、奈良の大和朝廷の有力豪族だった蘇我氏が物部氏との権力争いの戦い(丁未の乱)に勝ち、国を治めるうえで仏教は不可欠なものとして、普及を進めた。

 7世紀初頭には、推古天皇の摂政となった聖徳太子が家柄に縛られない人材登用制度の官位十二階、「和を以って貴しと爲し…」を第一条とする十七条の憲法を定め、仏教の教えで人々の心をまとめ、天皇を中心とする国づくりを進めた。

 このころの日本は、歴史区分でいえば弥生、古墳に続く飛鳥時代。隋、唐の中国大陸の王朝は世界の中心で、朝廷は小野妹子ら使節を送って最先端の政治、法律を学ばせ、自国の発展のために取り入れた。

 ものごとを教える側と教わる側は一見、上下関係をイメージするが、聖徳太子の目線はあくまでも対等。有名な「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という隋の煬帝に宛てた書簡も、朝貢すれど冊封(政治的な従属関係)は受け入れないという強い意志の表れだった。

 いまから1400年ほど前、奈良の飛鳥地方にわが国最初の律令制度が完成し、先日、その宮殿跡や古墳群など19の資産で構成する「飛鳥・藤原の宮都」の世界文化遺産への登録が正式決定した。そのうれしいニュースが報じられた日の朝刊各紙に、高市政権支持率急落の世論調査結果がでかでかと掲載された。

 支持率ダウンは消費減税のスピード感のなさが一番の要因か。「中華民族の偉大なる復興」を掲げる軍事大国がわが国への威圧を強めるなか、大和に生まれた高市首相の外交は、国益のために毅然と対等な立場を示した聖徳太子に通じる。(静)