レイモンド・チャンドラーはハードボイルドの先駆者である。その感情を殺した文体は異彩を放つ。この文体に多くの日本人作家も影響を受けた。石田衣良、大沢在昌、また大藪春彦、生島治郎、そして村上春樹も、である。

 チャンドラーの初期の代表作がこの「さらば愛しき女よ」だ。主人公は私立探偵・フィリップ・マーロウ。

 ロスアンジェルスの下町の場末のバーの前に立つ一人の大男。彼は八年の刑期を終えて出てきたばかりである。そのバーには彼の恋人が働いているはずだった。しかし、そのバーは黒人専用の店に変貌しており、また、恋人もいなくなっていた。オーナーも当然変わっており、大男はオーナーを問い詰めた。しかし、オーナーは彼に逆らったゆえに首の骨を折られて殺される。たまたま店に居合わせたマーロウはこの事件の捜査をロス市警から頼まれる。同時に不思議なガードマンの依頼を受けた。ある財産家から宝石のガードマンを頼まれたのだ。その宝石をある人に譲渡するその立ち合いのガードマンだ。しかしその宝石を渡す夜、財産家は殺されマーロウも暴漢に襲われ意識を失ってしまう。マーロウが意識を取り戻したとき、そこは牢獄のような部屋であった。

 この街は、警察を買収し、麻薬を売り、前科者を匿い、手を汚さなければ食っていけない街に変わっていた。港の沖には二艘の賭博船が無気味に浮かんでいる。

 チャンドラーの文体の幾つかを紹介するので味わって欲しい。

 ―われわれは階段を上って行った。まだ肩が痛かった。頭の後ろが冷汗で濡れていた。

 ―デスクの電話のベルが鳴った。彼は電話を聞いて、悲しそうに微笑した。(中略)彼の眼にかすかな光がうかんでいた。はるか遠くのほこりだらけの廊下の灯りだった。

 ―バーボンの一パイント壜をとり出し膝の上においた。女の眼が輝いて、ウイスキーの壜を見つめたが、すぐ、仔猫が見せるような疑惑の表情に変わった。もっとも、仔猫のそれのような無邪気なものではなかった――。

 この文体がチャンドラーの何よりの魅力である。

 一九七六年にハヤカワ・ミステリ文庫から出版されたこの本の訳者は清水俊二である。彼は東京大学経済学部を卒業するとMGM大阪宣伝部に就職するが、彼を有名にしたのは洋画の字幕スーパーであった。戸田奈津子と共に字幕スーパーの巨匠である。(秀)