なぜ…多すぎる戦争の遺構

「御坊エリアにはトーチカ等の防衛施設が多く、陸軍は大規模な戦闘を想定していたのでは…」 築城施設要図を見ながら森﨑さん (和歌山ビッグ愛で)

 1944年(昭和19)6月19日、米軍は日本が定めた絶対国防圏の最重要拠点の一つ、マリアナ諸島のサイパン島への上陸を開始した。当初計画の短期決戦に失敗、すでに多くの戦力を失っていた日本は、空母9隻を基幹とする機動部隊と大和、武蔵を含む前衛部隊を出撃させたが、結果は惨敗。戦闘機は出撃した全体の8割に当たる400機が撃墜され、米側が「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄するほどの一方的な戦いとなった。

 米軍はサイパン占領から10日後の7月21日にグアム島、さらに24日にはテニアン島へ上陸。日本は各地で玉砕を重ね、この敗戦によって絶対国防圏に大きな穴が開き、これらの島の飛行場には米陸軍の最新鋭爆撃機B29が大量に配備された。秋には日本本土への空襲が始まったが、B29を護衛する航続距離の短い直掩の戦闘機(P51)にとって、マリアナ―日本本土の往復は負担が大きい。米軍はサイパンと東京のほぼ中間にある硫黄島に狙いをつけた。そうした米側の事情を知る日本にとっても、硫黄島は絶対に落とせない。45年(昭和20)2月19日から始まった上陸作戦に、米軍は総勢11万人を投入。そのわずか5分の1以下の日本の守備隊は最後の1人まで戦う持久戦で対抗したが、3月26日にほぼ全滅。米軍に島と飛行場を奪われ、本土への空爆はさらに激しさを増した。

 日本は前年6月のマリアナ沖海戦で高度な技術を持ったベテランパイロットの多数を失い、戦況が急速に悪化の一途をたどるなか、海軍が10月のレイテ沖海戦で初の敵艦への体当たり攻撃を敢行。この常軌を逸した攻撃は当初、この1回限りと考えられていたが、敗戦が日増しに色濃くなるなか、45年3月26日の米軍の沖縄上陸以降、日本側が敵にダメージを与えられる攻撃はこの特攻しかなかった。航空特攻の攻撃目標は、沖縄近海を遊弋(ゆうよく)する敵の艦隊や補給船。九州のほぼ全域と大阪より西の四国、本州の太平洋岸に特攻機の出撃基地が建設された。

 和歌山市手平に住む森﨑順臣(まさみ)さん(78)は子どものころ、元軍人の父から大東亜戦争の話を聞かせてもらった。父が所属する部隊は44年秋、沖縄への出動命令を受けたが、現地で赤痢がまん延したため命令は中止となった。もし父が沖縄へ送られていたら…そんなことを考えることもなく、無邪気に父から戦争の話を聞いて育ったせいか、大人になってからも仕事が休みの日には図書館へ行って、近現代の歴史や戦争に関する本を読みあさった。

 2000年ごろには県立図書館の旧日本軍に関する資料の中から、友ケ島に潜水艦の侵入を探知する海軍聴音所があったことを示す図面を見つけた。友ケ島には明治時代に築かれた陸軍の要塞や砲台の遺構が数多く残っているが、海軍の施設があったことは知られていなかった。独自に調査を進めるうち、その図面は由良町に開設されていた海軍紀伊防備隊の資料で、対米戦争中、友ケ島に駐屯していた生存者数人を捜し出した。枚方市などに出向いて直接話を聞き、まとめた原稿を地元のニュース和歌山に投稿。ほぼ同時に大手新聞社も取材を進めていたが、活字となったのは森﨑さんの方が数日早く、スクープとなって大きな反響を呼んだ。

 その後、和歌山城郭調査研究会という団体に所属し、県内各地の戦争に関する遺跡の調査を進め、美浜町の入山や御坊市の亀山に残るトーチカ(コンクリート製の火砲陣地)や地下坑道を調べた。その際、御坊周辺はその数が異様に多く、「もしかしたら、旧日本軍はこの周辺で大規模な戦闘を想定していたのでは…」という考えが頭をよぎった。

美浜の入山に飛行場!?

入山の立花地区、観音堂の近くにあるトーチカ

 これは何や?││。2014年(平成26)9月、元高校教諭の小田憲(あきら)さん(71)=由良町畑=は東京の防衛研究所戦史研究センター資料室で、県立日高高校百年史編さんのための資料を探していたとき、偶然、旧陸軍の機密資料を見つけた。

 1914年(大正3)、日高郡立日高実科高等女学校として創立された日高高校は、48年(昭和23)に同女学校と県立日高中学校、県立日高工業学校の3校が一つとなった。創立100周年記念事業の一つとして、百年史を発刊することが決まり、いまから8年前、小田さんは日高工業学校(現紀央館)の通史に関する資料を探すため、防衛研究所を訪ねた。

 戦争末期の45年になると、大本営は米軍の本土上陸を想定し、来るべき決戦に備えて、近畿・中国・四国地方を作戦地域とする第15方面軍を編成した。7月まではその指揮下の第144師団歩兵第413連隊、その後は独立混成第123旅団の砲・工兵部隊が御坊に駐屯。同旅団の司令部は日高郡矢田村(現日高川町)に置かれ、これらの部隊は学校、青年会場、神社社務所等に駐屯し、生徒や住民とともに陣地の構築、訓練を行っていた。

 小田さんはこの点に関し、防衛研究所の職員が用意してくれた分厚い関連資料を一枚ずつ調べていると、「紀伊半島沿岸飛行場及空挺部隊着陸適地調査…」という見出しと略地図が示された資料が目に留まった。それは第15方面軍が第144師団命令として、歩兵第416連隊長、独立混成第123旅団長に対して出した調査命令とその結果報告書だった。

 第144師団は、通称「護阪(ごはん)部隊」と呼ばれた大阪への敵の侵攻を食い止めるための本土決戦部隊だった。命令は師団長の高野直満中将から7月20日付で下され、有田川河口や富田川流域など県内9カ所について、飛行場(または不時着陸場)や空挺部隊の着陸地の整備が可能かどうかを調べ、その結果を8月10日までに報告せよとなっており、調査地域には空挺部隊着陸地候補として「御坊平地」が含まれている。

 「まさか…」。3枚の資料のうち1枚には、入山を中心に西山や煙樹ケ浜を含む地図と調査結果が記されている。御坊平地とは御坊市周辺の日高平野のことで、資料は美浜町和田の入山の近くへの小型飛行場、煙樹ケ浜への不時着陸場の調査に関するものだった。

 戦争末期、軍が日高地方に飛行場を建設する案を持っていた。小田さんは御坊商工(現紀央館)勤務時代、故中村隆一郎先生や生徒とともに日高地方であった空襲とその被害、戦争遺構調査などを行い、いまも所属する日高平和委員会でも各地の戦争の遺構等を調査してきたが、飛行場の話は聞いたことがなかった。本来の目的の日高工業学校に関する資料とともに、飛行場適地調査に関する資料(3枚)を取り寄せた。

 その後、日高高校百年史は完成し、小田さんは飛行場計画の調査とは別に、日高平和委員会の活動として日高地方各地に残るトーチカや地下壕の調査に参加した。きっかけは、森﨑さんが所属する和歌山城郭調査研究会のメンバーが入手した独立混成第123旅団の築城施設要図だった。それによると、御坊市の亀山、野口・北塩屋、美浜町の西山、美浜町の松原・和田など、御坊地区(日高平野)全体で大きく7つのエリアにトーチカ等の施設を造る計画となっており、小田さんらはその資料を基に地元の人の協力を仰ぎ、山の中を歩き回って調査を進め、うちいくつかは森﨑さんも同行した。